鷲尾飛鳥

03月 « 2017年04月 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30  » 05月

10年目の回帰  主要登場人物紹介

2015年 05月28日 08:55 (木)

現在執筆中の、囚われた少女の二次創作の登場人物です

50314798_p1_master1200.jpg
50314798_p2_master1200.jpg
50314798_p3_master1200.jpg
50314798_p4_master1200.jpg
op05-51.png

参考
カルシファー様原作 囚われた少女―魔女狩りに囚われた少女広美
http://rokujuuni.blog10.fc2.com/


※本作品は、囚われた少女本編における主人公、相原広美の10年後を想定して作成した二次創作です。

フィーナ・シュタインベルクのキャラクター名は、原作中のSS小説『フィーナと広美』のフィーナから引用しています。

トリステル大学の名称は、トリステル修道院 http://b.dlsite.net/RG20513 より引用しています。
スポンサーサイト

10年目の回帰

2015年 07月29日 07:53 (水)

カルシファー様原作『囚われた少女』の二次創作
http://rokujuuni.blog10.fc2.com/

まえがき

二次創作というより、本編の続編のような規模に膨れ上がってしまいました。なお、ストーリー中に登場する人物・団体・地名等は、全てフィクションであり、実在のものとは関係ありません。


-------------------------------------------------


時は・・・ 魔女狩りの嵐が吹き荒れる中世のヨーロッパ・・・
ここはヨーロッパの人里離れた、とある場所にある牢獄・・・・

牢獄の名はシュタイニバッハ監獄・・・・
監獄の中からは魔女狩りで囚われた少女たちの悲鳴や呻き声が聞こえる・・・
その囚われた少女たちの中に、一人の日本人少女がいた。

P4-1.jpg

少女の名は『広美』・・・・

暗く、冷たい牢獄の中で壁に鎖で繋がれた広美の呻き声が今日も聞こえる・・・

-------------------------------------------------

10年目の回帰

49018849_p5_master1200.jpg

囚われた少女
魔女狩りに囚われた少女 広美より
原作 カルシファー
脚本 鷲尾飛鳥


ロケ地協力
ドイツ シュタイニバッハ郷土資料館
     トリステル記念館
    
日本 城北大学キャンパス

制作 東日本TV



  *****************




 時は現代
 季節は5月。街に初夏の爽やかな風が吹き抜ける頃・・・・

 ここは東京の都心部から離れた静かな住宅地の中。朝の日差しが緑の衣を纏った木々を照らし、家々の軒先にはスズメが飛び交っている。そんな中を、風を受けて歩く一人の少女がいた。少女の名は相原広美。もうすぐ20歳を迎える大学2年生である。
 広美の出身地は四国の香川県にある、瀬戸内海に浮かぶ渚島で、青い海と緑に囲まれた自然の豊かな場所である。広美は大学進学のため、生まれ故郷である瀬戸内海の渚島を離れて上京し、親友の綾瀬春香と一緒に東京都内にある城南大学に通っていた。

01-01.png

 広美の住んでいるアパートから大学までは、電車で3駅。アパートの造りは軽量鉄骨のマンションのような感じになっていて、部屋割りは1DKで家賃は月3万円。東京の賃貸相場としては比較的安い方である。一年の時は大学の学生寮にいたのだが、学校まで遠く、また大学の規則で一年の時しか住む事が出来なかったので、一年の終わりの時に大学が近い場所に手ごろなアパートを見つけて、春香と一緒にそこへ移ったのだ。世帯数は8世帯の建物がABの2棟並んでいて計16世帯。現在空き部屋なし。住んでいるのはみんな学生で(学校は様々)、広美はA棟2階の201号室。春香がB棟1階の103号室を使っている。
 広美は理工学部。春香は文学部に在籍していて、一般教養課程以外の授業の時間帯がそれぞれ異なるため、2人で一緒に通学するのは週2回くらい。今日は春香が朝一番からの授業のために早出していたので、広美は一人で大学へ向かっていた。その広美の表情は、かつて自分が体験したあの忌まわしい出来事については、何の蟠りも無く、全てを忘れているかのようだった。

   *    *    *    *

 今から遡る事10年前の今頃、広美は小学生で、親友の春香と一緒に学校から帰宅の途中だった。2人の服装は、田舎の小学校にありがちな紺色の制服。丸襟のブラウスと吊りスカートという姿で、まだ衣替えの前だったが、2人とも夏用の半袖のブラウスを着ていた。やがて二人は、分かれ道の三叉路に差し掛かった。
「春香ちゃん、またね!」
「広美ちゃん、また明日ね!」
と言って、手を振りながら別れたのであった。それは、本当にいつもと変わらない、楽しい春の日のはずだった。2人が別れて、それぞれの家へと歩き出した直後・・・ 空から突然強い光のようなものが舞い降りてきて広美たちの体を覆った。
「キャッ!?」
 強い光を浴びた時の衝撃で、広美は意識を失った・・・・・

 それからどれくらい時間が経ったのか、広美は耳元で叫んでいる春香の声が薄っすらと聞こえてきた。
「広美ちゃん。広美ちゃん!!」
「ん・・・・ 」
「広美ちゃんしっかりしてぇ。起きてよ。広美ちゃん」
 広美が目を開けると、すぐ目の前に自分に向かって叫んでいる春香の顔があった。両目には大粒の涙が浮かんでいる。
「はる・・ ちゃ」
 春香は目を覚ました広美の両肩をつかみ、揺すりながら叫んだ。
「広美ちゃんしっかりして。広美ちゃん起きてぇ」
「春香ちゃん。そんなに揺すらないで。今起きるから」
 広美は起き上がると、地べたに女の子座りの恰好で辺りを見回した。まだ頭がボーっとしているのか、半分上の空だった。心配した春香が広美の傍に寄り添うように座った。

01-02.png

「広美ちゃん大丈夫?」
「ウン・・  大丈夫だけど・・・ 一体何があったの? 急に大きな音がして周りがパァーッと光って何も見えなくなっちゃったと思ったら、耳元で春香ちゃんの声がして・・・ 私、何だか別の世界にいたみたいなの。よく思い出せないんだけど」
 広美が言っている『別の世界』とは、広美がタイムスリップした中世のヨーロッパの時代の事である。
 広美は光を浴びると同時に、春香とともに中世のヨーロッパにタイムスリップしてしまい、そこで魔女の嫌疑をかけられて数ヶ月もの間牢獄に鎖で繫がれ、また様々な拷問を受けて苦しめられた。そして処刑される直前に村人達によって助けられ、一度は自由の身になったものの、冷酷な神父に再び捕えられて凄まじい拷問にかけられた。そして再び処刑される、というところで強い光が広美を覆い、広美は自分が最初にタイムスリップした場所に戻ってきたのだ。その時間差は±0.5秒で、最初に光を浴びた時と殆ど同じ時刻だった。実際には数ヶ月もの間違う世界にいたのだが、自分たちの世界に戻ってきたときの時間は、タイムスリップした直後の時間だった。そのため広美が経験した数ヶ月の出来事が、時間の凝縮作用によって歪められて押し潰され、広美が体験した悪夢のような出来事は、広美自身の記憶の奥底に追いやられるように封印された。一緒にタイムスリップした春香も同様だった。
 春香も強い光を浴びて意識が朦朧となったが、広美よりも早く回復した。我に返ったとき、別れたばかりの広美が気になって、引き返して分かれ道まで戻ってきたとき、道端で倒れている広美を見つけて慌てて駆け寄ったのである。
「広美ちゃん大丈夫なの? 立てる? 私ビックリしたよ。何か雷みたいな強い光が光ったと思ったら、広美ちゃんがいる方ですごい音がしたの。戻ってみたら広美ちゃんが倒れていたから。雷に打たれて死んじゃったのかと思ったんだからぁ」
 春香は広美に抱きついて泣きじゃくった。
「春香ちゃん。大丈夫だから。泣かないで」
広美は立ち上がると、春香の手を取って立たせた。春香はまだ泣きべそをかいている。
「帰ろうか」
 春香は涙を拭きながら頷き、2人は再び別れてそれぞれの家に向かって歩いていった。

  *    *    *    *

01-03.png
 
 それから何事も無く時が過ぎて2人は小学校を卒業し、小学校の隣にある中学校に進学。そして渚島から船と徒歩で約一時間の所にある本土の高校に進学した。さらに二人一緒に東京の城南大学を受験して合格し、大学進学と同時に渚島を離れて上京。広美は理工学部。春香は文学部の学生として、今日に至っている。その間広美も春香も、例の悪夢のような出来事を思い出す事も無く、また広美の手首や足首には手枷や足枷の痕跡も無く、鞭で打たれた傷跡や、焼印の跡も無かった・・・・
 しかし、これから2人の間に起きる数奇な出来事で、それらの記憶がフラッシュバックし、2人の身の回りで起きる事に、まだ2人とも気付いていなかった。

  *    *    *    *

 時間は昼近くなっていた。広美は午前の授業を終えたところで、春香と待ち合わせしていた場所へ向かった。校舎と校舎の間にある中庭を歩いていると、丁度すぐ傍の校舎から春香が出てきて、広美を見つけると小走りに駆け寄ってきた。
「広美ちゃん」
「おはよう。春香ちゃん」
 広美の服装がボーイッシュで、いつもコーデに無頓着なのに対し、春香は周りの流行にほぼ近いお洒落なスタイルをしていて、メイクもしていた。

01-04.png

「広美ちゃん。午後の授業まで結構時間空いてるよ。今日は外へ食事に行こうか」
「ゴメン春香ちゃん。私、次の授業のレポートまとめないといけないから、外へ出てる時間は無いわ。ご飯食べたらすぐ図書館へ行かなきゃ」
「そっか・・  しょうがない・・ な。それじゃ学食へ行こうか」
 2人は学食がある方へと歩き出した。

  *    *    *    *

 その日の夜、帰宅した広美は食事と風呂を終えて、明日提出するレポートを書いていた。さっきまでは春香が遊びに来ていたが、今は一人である。
「よし。これで完成。さあ寝るか」
 広美は寝巻きに着替えると、ベッドの中にもぐりこんで電気を消した。

  *    *    *    *

 広美は薄暗い空間の中にいた。動きたくても体が動かない。両手を上に上げた恰好で何かに縛られて吊られているような状態だった。よく見てみると、自分の周りは壁も床も全て石造りの部屋で、鉄格子のついた窓があり、そこから雪交じりの冷たい風が吹き込んでいた。広美自身は壁に吊るされた鉄の鎖の先端にある鉄の手枷を嵌められ、爪先立ちの恰好で拘束されていた。服装は何故か小学校の時に着ていた学校の制服で、半袖の夏用の丸襟のブラウスだった。そして自分の体も小学生の頃の体型になっていた。

01-05.png

「ここは何処? どうしてわたし繫がれているの?  寒い・・・ 手が痛いよ・・  足が痛いよぉ。誰か助けて。これはずしてよぉ」
 鉄枷は両手だけでなく、両足にも嵌められていた。体に突き刺さるような寒さに、広美の剥き出しの腕や脚には鳥肌がびっしりとたち、広美は体をガクガクと震わせた。そのたびに両手両脚を繋いでいる鎖がジャラジャラと壁にあたる。吊るされた自分の腕を見てみると、所々に鞭で打たれたような跡があり、両脚にも同様の痕跡があった。
「嫌・・・・  何これ・・・  どうしてこんな・・ 」
 カツカツカツ・・・
 その時誰かが歩いてくる音が聞こえてきた。
「誰か来る・・・ 」
 足音は広美がいる部屋の前で止まり、ガシャンという音とともに正面にあった鉄の扉が開けられ、屈強な体型の男が2人入ってきて、広美に近づいてきた。二人の男は牢獄の看守のダボイとヘスだった。
「小娘! 審問の時間だ」
「お願い助けて・・・ お願い・・・ 鎖をはずしてください」
 広美の哀願を無視するかのように、ヘスは連行用の手枷の用意をしていて、ダボイは広美の前に立つと、鞭を持って構えた。
「小娘。審問の前に、ここで少し痛めつけてやる」
 そう言ってダボイは鞭を振り上げた。
「嫌あーっ! ・・・・・・・・・・・・・」

  *    *    *    *

「嫌あぁーっ!」
 広美が叫ぶと同時に、周りの様子が突然変わった。見回してみるといつも自分がいるアパートの部屋の中で、広美はベッドの上で起き上がった状態だった。傍らにある目覚ましを見ると午前4時を回ったところだった。
「夢・・・・・・・   ・・・・・・・・」
 広美はそう呟いたが、自分の両手首に違和感を感じた。触ってみるといつもと違うような感触が感じられた。何だろうと思って電気をつけると、広美の両手首には薄っすらと赤みがかった痣が浮き出ていた。

01-06.png

「な・・ 何なのこれ・・・ やだ・・・ どうしてこんな・・・ 」
 腕にも線状の痣が所々に浮き出ている。広美は布団を剥がすと、両足も見てみた。すると足首にも手首と同様の痣が浮き出ている。
「これって・・・  夢の中の・・・  私・・・ 壁に繋がれていて・・・ 」
 広美は血の気が引く思いをした。
「そういえば・・  昔こんな事があったような・・・ 確か強い光に覆われて・・・ 」
 広美はかつてのタイムスリップの時の事を思い出したが、その後のことについては、それ以上のことは思い出せなかった。広美は再び布団を被って横になったが、悶々として寝る事が出来ず、そのまま朝になった。

「ふぁあぁ」
「広美ちゃんどうしたのよ。あくびばっかりして」
 大学へ行く途中で、広美はずっと生あくびばかりしていて、心配した春香が聞いた。
「何でもないよ。ただ、寝付けなかっただけだから」
 広美が今朝方見た手首や足首の痣と、腕の鞭の跡は既に消えていた。

 そして今は大学の講義中・・・
 一般教養課程の生体心理学の時間である。広美は寝不足からか、授業を受けながらずっと生あくびを繰り返し、ついにウトウトとしてそのまま寝入ってしまった。気付いた春香が広美の体を軽く揺すりながら、広美の耳元で小声で喋った。
「広美ちゃん。広美ちゃん。起きて。先生がこっちを見てる」
「う・・ う~ん・・・ 」
 春香が揺すっても、広美は起きなかった。講義をしていた教授は、広美が居眠りしているのを見つけたものの、そのまま構わず授業を続けていた。生体心理学の教授は赤羽美樹子といい、この城南大学の出身である。生体医学と人間工学、そして薬学の博士号を持っていて、つい最近教授になったばかりだが、講師として長くこの大学で教鞭をとっていた。赤羽教授の授業内容は厳しい事で有名で、レポートや課題が多かったが、分かりやすくかつ理解しやすいので評判が良く、受講生も多かった。
 授業が終わって学生達がゾロゾロと教室から出て行ったが、広美は眠ったまま起きる気配が無い。春香が心配そうに広美を見つめていると、教授の美樹子が近づいてきた。
「広美ちゃん。起きてったら。先生が来たよ」
「ん・・・・ 」
 広美は目をパチパチとしながら顔を上げた。目の前に立っている美樹子の姿を見て、広美は一気に目が覚めた。
「相原さん!!」
 名前を呼ばれた広美は、反射的にその場で起立した。が、体をふらつかせて、傍にいた春香が立ち上がって広美を支えた。
「相原さん。私の授業は眠くなるくらい疲れるのかしら」
「ち、違います。広美ちゃんは・・ 」
「私は相原さんに聞いているのよ」
 広美はボーっとしたような上の空の表情で、それを見抜いた美樹子は一つため息をついてから広美に言った。
「今日の授業が全て終わったら、私の研究室に来なさい。いいわね!? 」
「は・・・ はい・・・ 」
 美樹子は踵を返すと、教室から出て行った。

  *    *    *    *

 広美はそれから他の授業にも出席したが、その日は授業にならず、最後の授業は出席しないで図書館の片隅で机に突っ伏して寝ていた。そこへ携帯に着信が入り、携帯の振動で目が覚めた。
「んー・・ あ・・ 春香ちゃんだ。はぁい。広美でぇす」
『☆×〇■』
「あ・・ そうだった。ゴメンゴメン。今行くから」
 広美は立ち上がると春香との待ち合わせの場所へと小走りに駆けていった。春香は既に待っていて、膨れっ面をして広美を迎えた。

01-07.png

「広美ちゃんどうしたのよ。何だかおかしいよ」
「だから寝不足だって」
「そうじゃない。おかしい! 広美ちゃんどうかしてる。一体何があったのよ。保育園の時からずっと一緒だった私には、広美ちゃんの事殆ど分かっちゃうのよ。広美ちゃん絶対おかしいよ」
 春香は、広美の表情から、広美がいつもと違うことを直感していたのだ。
「弱いなぁ・・ 春香ちゃんに言われると・・ 」
「もう・・・ そんな事より、先生に呼ばれてるんでしょ。早く行こうよ」
 広美と春香はゆっくりと歩き出し、美樹子の研究室がある校舎へと向かった。

 コンコン
「どうぞ」
「失礼します」
 広美と春香が研究室に入ると、美樹子は二人がやってくるのを既に分かっていたかのように、腕組みをして立っていた。
「あの・・ 先生。今日は・・・ 」
「いいからこっちへ来てそこに座りなさい」
 広美は美樹子に促されるままに、美樹子が差し出した椅子に座った。

01-08.png

「相原さん。あなた・・  何かを抱えているわね」
「わたしが・・ ですか?」
「そう。自分では気付いていないようだけど、あなたには何か思いがけない物を抱えているように感じるのよ」
 美樹子の話に広美は戸惑った。
「最近あった事を私に話して頂戴。嫌なら無理にとは言わないから」
「最近・・・・ っていっても・・・ そうだ。例えば変な夢を見たこととか・・・ それでもいいんですか?」
「夢?」
「はい」
「どんな夢だったの? 覚えている?」
「はい。すごく鮮明な夢だったんで」
 広美は自分が見た夢の内容を美樹子に話した。隣で聞いている春香は『何の事だ』という感じで聞いていた。
美樹子は話を聞きながら黙って考え込んでいたが、立ち上がると棚の鍵を開けて、中から小瓶を取り出し、テーブルの上に置くと瓶の中に入っていたものを広美に渡した。
「寝る前にこれを飲むと良いわ。もしそれでもまた同じ夢を見るようだったら、私の所に来なさい」
 美樹子が渡したものはカプセルに入った薬だった。広美は戸惑いながらも薬を受け取った。

  *    *    *    *

「広美ちゃん。さっきの話一体何なの? 夢の中で暗い牢獄みたいな部屋の中で壁に鎖で繋がれていたとか、見たことも無い人たちに鞭で打たれそうになったとか・・・ 」
「私にも分からないのよ。ただ・・ 」
「ただ・・ 何?」
「あんな鮮明な夢を見たのって、今までそんなに無かったわ。まるで本当にあった事みたいだったのよ」
「起きたら手首と足首に赤っぽい痣が浮き出ていたって?」
 そう言いながら、春香は広美の腕をつかんで眺めた。
「別に何も無いよねぇ・・・ 」
「うん・・ 暫くして気付いたら消えていた・・・・ それよりいつまでもつかんでいないで。周りの人が私たちを見てるよ」
「あ・・ ゴメンゴメン」
 大学から帰宅する間、広美と春香はずっと話しこんでいた。そして自分たちが住むアパートまでやってきた。
「それじゃ広美ちゃん。また明日ね」
「うん。春香ちゃんバイバイ」
 アパートの前で2人は別れて、それぞれの部屋へ向かって歩いて行った。

  *    *    *    *

「うう・・  寒い・・ 寒いよ」
広美は雪の中を後ろ手に鉄の手枷を嵌められ、首にも鎖が付いた重い鉄枷を嵌められて、罪人のように鎖を引かれて歩いていた。 

01-09.png

「手が痛いよ・・ 首が苦しい・・ うう・・ 重い・・ 歩くのが辛いよぉ」
 両足首にも重い鉄の足枷を嵌められ、延々と雪道を歩かされる・・・・ 少しでも歩みが遅くなると、後ろにいる男が鞭を振るい、容赦なく広美を叩きつける。
「さっさと歩け! 魔女め!」
 バシイッ!!
「アアーッ!」
 さらに前の男が広美の首枷を繋いでいる鎖をピーンと引っ張る
「ああっ」
 やがて広美は拷問塔と呼ばれる建物まで、引き摺られるように連れてこられ、建物の中へ入った。そこには三角木馬やラックと呼ばれる引き伸ばし拷問用の道具があり、また壁には吊り手枷付きのたくさんの鎖が吊るされ、その他の様々な拷問器具があった。広美は後ろ手に鉄の手枷を、首に重い首枷を嵌められたまま、三角木馬の前に引き出された。両足首には鉄球付きの足枷が嵌められ、木馬の上に跨がされる寸前・・・ 
「嫌あ―ッ!!!」

 ドスン!!!!!!
 悲痛な叫び声とともに、広美はベッドから飛び起き、バランスを崩してそのままベッドから床の上に落ちて思いっきり尻餅をついた。
「痛ったぁ・・・・ 」
 我に返った広美は自分の周りを見回した。そこは自分が寝ていた部屋の中だった。目覚まし時計の時刻は午前3時。広美は電気をつけた。
「また夢・・・  嫌・・・ 何でこんな・・ もう嫌・・・ 嫌あーっ」
 広美の両手首には、前よりも鮮明な痣が浮き出ていて、両足首にもくっきりと痣が浮き出ていた。そして首にも違和感を感じて、鏡を見た広美は血の気が引いた。首にも首枷の跡がくっきりと浮かび上がっていたのだ。さらに背中には鞭で叩かれた痛みがかすかに残っていた。怖くなった広美は部屋の電気を消して真っ暗にし、そのままベッドの中にもぐりこんだ。悶々とした思いで布団の中で丸くなって、そのまま朝が来て目覚ましが鳴った。美樹子から貰った薬のおかげで、眠れないという事は無かったが、寝るとまた夢を見るという恐怖感が広美を支配しつつあった。
 朝になってベッドから出た広美は、自分の両手足や首の周りを眺めた。既に痣は消えている。広美は何故そんな夢を見るのか、まだ自分では分かっていなかった。過去に中世のヨーロッパにタイムスリップして、地下牢で鎖に繫がれ、凄まじい拷問にかけられていた事は、まだ広美の記憶として甦っていなかったのだ。

 ピンポーン
 玄関の呼び鈴が鳴って、広美は寝巻き姿のまま玄関の覗き窓から外の様子を見た。外に立っていたのは春香だった。
「春香ちゃんだ」
 広美は玄関の鍵を開けてドアを開けた。春香は広美の恰好を見て、そのまま中に入っていて玄関の戸を閉めた。
「広美ちゃんまだ着替えてなかったの? 早くしないと遅れちゃうよ」
 春香は靴を脱ぐと、広美の手を取って部屋の中に入った。ベッドの様子を見た春香は、昨日の事を思い出した。
「また例の夢を見たの?」
 広美は黙って頷いた。春香は広美をベッドに座らせると、自分もその隣に座った。

01-10.png

「ねえ広美ちゃん。病院へ行こうよ。きっと何かの病気なんだよ」
 広美は黙って頷いたが、すぐに春香に言った。
「病院より先に、赤羽先生の所にもう一度行く。それでダメなら、春香ちゃんの言う通りにするから。それでいいよね?」
「うん。分かった。そんな事より早く着替えなきゃ」
 春香は広美を煽るように言い、広美はゆっくりと立ち上がると、寝巻きを脱いで下着姿になった。春香は慌てて部屋の外へ出た。
「広美ちゃん。私、外で待ってるから」
 春香は玄関の戸を開けて外へ出た。

  *    *    *    *

 美樹子の研究室にて・・・・
「また例の夢を見たのね」
「はい」
 美樹子は一つため息をついた。
「恐らく・・・ これは私の感だけど、相原さん。あなた過去に夢と同じ事を体験しているのかもしれないわね」
「いいえ。そんな事無いです」
 夢の中の出来事を実際に経験していたという事は、広美の記憶には無かったが、広美の話を聞いた美樹子は、広美の記憶が何らかのショックで封印されていると見抜いた。
「きっと何かのショックで過去の記憶が封印されているのかもしれないわ。だからあなたは覚えていないのよ。その記憶を甦らせて真相を探る事は出来るけど、あなたにとっては衝撃的な事になるかもしれないわね」
広美は黙って話を聞いていた。
「どうする? 相原さん」
「どうするって・・・ 」
「あなたが抱えているものを引っ張り出して、つまりあなたの封印されている記憶を甦らせて、夢の正体を暴くのよ。それがあなたにとってプラスになるのかマイナスになるのかは、あなた次第だけどね」
「記憶を甦らせる・・ そんな事出来るんですか?」
「出来るわよ。だからあなたに聞いたのよ」
 広美は黙って考え込んでいた。自分の見た夢の正体を見たいという願望と、そんな事をしたら大変な事になるのではないかという恐怖感が交錯していた。が、何かを振り切ったかのように、美樹子に言った。
「探る事が出来るんなら、お願いします。私・・ 自分が見た夢に悩まされるのに、もう耐えられないんです」
「分かったわ。それじゃ私と一緒に来て」

 広美は美樹子に連れられ、春香と一緒に廊下を歩いて、『神尾信次研究室』というプレートが張られた部屋の前で止まった。春香がそれを見てびっくりしたように言った。
「こ、この人・・・・ 確かこの大学の名物教授で、死神博士とかいうあだ名の」
「しっ・・・ 春香ちゃん失礼だよ」
 美樹子がドアをノックすると、中から低くて気味の悪そうな声が聞こえてきた。
「どうぞ」
「失礼します」
 先に美樹子が入り、続いて広美と春香も室内に入った。が、室内を見渡してみると、これといったおかしな様子は無く、普通の研究室と同じ様相だった。ただ、神尾教授の姿恰好が広美と春香の目を引いた。神尾教授は先ほど春香が言ったように、死神博士というあだ名があった。城南大学の名物教授で、生体医学・人間工学・生体心理学に生体生理学の四つの博士号を持っていて、さらに超自然現象研究の世界的権威でもあった。その一方で世間一般で言う『変わり者』であり、一見不審者にも見られがちな行動をしたり、おかしなスタイルで講義をしていたりと、とにかくここでは説明しきれないほどの人物だった。だが、この教授は学内で人気があり、受講生も多くて、広美もこの教授の講義を選択していた(春香は学部が違うので選択していない)。死神博士というあだ名は、その風変わりな行動やスタイルから来ていて、かつ仮面ライダーに登場するショッカーの幹部の死神博士に容貌が似ているからであった。

01-11.png

「赤羽教授。何か御用かな?」
 神尾教授はゆったりとした低い声で喋った。
「神尾教授。この子が先日お話した相原さんです」
 そう言って美樹子は広美の方を向いた。神尾は美樹子の後ろに立っていた広美の傍へ来ると、広美を上から下へ眺めるようにジッと見つめた。
「君が赤羽教授の言っていた、相原君だね」
「は、はい。相原広美です。先生の授業にも出ています」
「ああ・・ よく分かっておるよ。君は私の授業にキチンと出席しておるし、レポートや課題もしっかりとまとめて提出しておるね。君のレポートの内容は非常に分かりやすいから、私も読みがいがあるのだよ」
「あ、ありがとうございます」
「ま・・ それはさておき・・・  変な夢を見て悩まされておるとな。赤羽教授から大体の事は聞かせてもらった。そこでだ。私がその夢の内容を分析して、君が抱えているものを導き出してあげよう。ただし、結果によっては君にとって衝撃的なものになるかもしれないがな」
「はい。お願いします。私、このまま夢で悩まされるのに耐えられないんです。もし夢の中身が分かるのなら、どんな結果になっても良いですから」
 神尾は一息ついてから、広美に言った。
「うむ・・・・  よろしい。それでは明日の午後一番に、私の実験室に来なさい。それまでに準備をしておこう」
 神尾はそう言うと、机の上においてある電話の受話器を取って電話をかけ始め、暫くすると相手が出た。
「ああ・・ 。私だ。明日の午後、相原広美という女子学生の、夢の分析と実験を行うから、明日の昼までに段取りをしてくれたまえ」
「・・・・・・」
「ああそれと・・ 君も助手として私についてくれたまえ」
「・・・・・・」
 電話を置いた神尾は、広美の方を向いた。
「相原君。それでは明日の午後に」
「はい。ありがとうございます。よろしくお願いします」

  *    *    *    *

「よかったね広美ちゃん。これで怖い夢に悩まされなくなるじゃない」
 事情を知らない(本当は春香も同じ体験をしているのだが、春香の夢の中には広美が見たものは出てきていない)春香はあっさりと言った。
「でも・・ まだ怖いのよ。赤羽先生から貰った薬で、寝る事は出来るんだけど、夢から逃げられないのよ」
「大丈夫だよ。あの先生だったらきっと解決してくれるって」
 春香は広美を安心させようと一生懸命だったが、広美はその傍らで黙って話を聞いていた。

  *    *    *    *

「うう・・・ 寒い・・ 体が凍りそうだよ・・ 痛いよ・・ 誰か鎖をはずして・・ 手が痛い・・ 足が痛いよ・・ お願い誰か助けて・・ 」
 広美は暗い地下牢の中で、突き刺さるような寒さに、その小さな体を震わせていた。両手首は鉄の手枷が食い込むように締め付け、体が震えるたびにジャラジャラと鎖が壁にあたり、広美の嗚咽が室内に響く。その時足音が聞こえてきて、広美は体を強張らせた。
「誰か来る・・・ 私を拷問しに来たんだわ・・ もう嫌。助けて・・ 拷問なんていやだよ」
 しかし足音は複数のものではなく、また音も小さかった。やがて広美の独房の前で足音が止まり、扉の鍵を開ける音がして、扉が開いた。入ってきたのは親友の春香だった。

01-12.png

「は、春香・・・ ちゃん・・・ 」
「広美ちゃん! 」

01-13.png

 お互いが驚いてお互いを見つめ合った。春香の両手にも手枷が嵌められている。春香は壁に鎖で繋がれている広美の姿を見て、広美の元に駆け寄り、そのまま抱きついて泣きじゃくった。その瞬間、広美の目の前が真っ暗闇に包まれ、何も見えなくなったと同時に、広美は意識を飛ばした。
 広美はベッドの中で魘されていた。が、静かになったと思ったら、スースーと寝息を立てながら何度か寝返りをうってそのまま動かなくなった。美樹子から貰った薬のおかげで、深い眠りについたのだ。

  *    *    *    *

 ピピピピピピ
 目覚ましの音で、広美は目が覚めてゆっくりと起き上がった。現在午前七時。同時にピンポンピンポンと、けたたましく呼び鈴が鳴る音で、広美はベッドから飛び出ると、玄関に出て覗き穴から外を見た。
「一体誰よ。こんな朝早く・・・ 」
 外には春香がすごい形相で立っていた。広美がドアを開けると同時に、春香が飛び込んできて広美に抱きつき、その反動で広美は後ろにひっくり返り、その上に春香が乗っかってきて、広美を押し倒したような恰好になった。
「痛たたたた・・・ 何よ春香ちゃん。朝っぱらから」
「ご、ゴメン広美ちゃん。それより何か飲ませて」
 広美は立ち上がると、冷蔵庫の中からペットボトルのお茶を出し、春香は引っ手繰るように取ると一気に飲み干した。春香の顔色を見た広美は、春香に聞いた。
「どうしたのよ一体。顔が真っ青だよ」
「わわ・・ 私も・・・ 私も広美ちゃんと同じ夢を見たのよ」
「春香ちゃんも?」
「うん・・ 私も両手に鉄の手錠を嵌められていて、それで壁に繋がれている広美ちゃんがいて・・・ 」
 そのあとはもう言葉になっていなかった。春香はそのまま広美に抱きついて、大泣きした。
「春香ちゃん落ち着いて。今日、神尾先生が謎を解き明かしてくれるんだから。そうすれば大丈夫だから」
 広美は春香の頭を撫でて宥め、ようやく春香は泣き止んで落ち着きを取り戻した。そこで広美は自分が寝巻き姿なのに気付き、あわてて春香を部屋に入れて扉を閉めた。幸い誰も傍を通らなかったので、自分たちの様子を見られるという事はなかったが・・・・
「広美ちゃん。トイレ貸して」
 緊張が解けたのか、春香はそう言うと、そのままトイレに駆け込んだ。暫くして春香がトイレから出てくると、広美は部屋の中で着替えを終えて机の前に立ち、ナップザックに教科書やノートを入れて、大学へ行く用意をしていた。
「広美ちゃんゴメンね。取り乱して」
「いいから。あっ」
「どうしたの広美ちゃん」
「ストッキング伝線してるよ」
 春香は自分の脚を見た。膝のすぐ下から太股にかけてストッキングが伝線している。

01-14.png

「え? やだ・・・ 。きっとさっき転んだ時だわ」
 広美は箪笥の引き出しを開けると、そこからストッキングを取り出して春香に向けて放り、春香は両手で受け取った。
「それ。まだ履いてないから使っていいよ」
「ありがとう。ゴメンね」
 春香がストッキングを履きかえている間、広美は春香の方を見ないで、黙々と大学に行く用意をしていた。

  *    *    *    *

 その日の午後・・ 広美と春香は美樹子の案内で神尾教授の実験室にやってきた。実験室は研究棟の中にあるのではなく、大学構内の片隅にある平屋建ての一軒家の中にあった。建物は鉄筋コンクリートで出来ていて、ここは周りを木々に囲まれ、あたかも周囲から隔離されているように佇んでいて、まるで悪の組織のアジトのような感じを醸し出していた。その事が神尾教授のあだ名をさらに引き立てていた。神尾はこの一軒家を大学から買い取り、自分の実験室として使用していたのだ。出入り口の扉は開放されていて、三人がやってくると、それを待っていたかのように、長身で金髪の長い髪をした女性が出迎えた。この女性はドイツ人で、名前をフィーナ・シュタインベルクといい、ドイツの大学から城南大学に留学している留学生で、現在神尾教授の助手をしていた。日本に来てかなり経過していたので、日本語もかなり話す事が出来た。フィーナは広美を見ると、広美の前に来た。

01-15.png

「いらっしゃい。あなたが博士の言っていた相原さんね」
「はい。理工学部2年の相原広美です」
「はじめまして。私は神尾博士の助手をしている、フィーナ・シュタインベルクといいます。よろしく」
「こちらこそよろしく」
「フィーナさん。こんにちは」
「こんにちは赤羽教授。さあ皆さんどうぞ。博士は実験室でお待ちしております」
「ありがとう。それじゃお邪魔します」

  *    *    *    *

 建物に入って廊下を歩いていると、実験室と書かれた部屋が見えた。
 コンコン・・・
 先頭にいたフィーナは、ドアをノックしてからドアを少し開けた。
「博士。皆さんが来ています」
「うむ・・ 入りたまえ」
「どうぞ」
 フィーナはみんなを促すように中へ入れると、一番最後に部屋に入ってドアを閉めた。実験室の中は意外と広く、手術室にあるようなベッドが一つ。机が一つと椅子が二つあるだけで、あとは見た事も無いような機材が並んでいた。神尾は昨日の変なスタイルとはうって変わって、ノーマルな白衣のスタイルだった。
「相原君。そこのベッドに横になりたまえ」
「はい」
「それから君たちはそちらの椅子へ」
 神尾は美樹子と春香を促し、二人は椅子に座った。広美はベッドの傍に来ると、靴を脱いでベッドに横になった。神尾はフィーナに合図し、フィーナは広美の傍に来て、近くにあった移動式機材の一つを広美の傍に持ってきた。その間神尾はモニター画面を操作し、大型のコンピューターを起動して、ケーブルを机の上にあるモニターとパソコンに接続した。さらにフィーナはベッドに付けられている二本のベルトで、広美の胸の下と足首の辺りを固定した。
「実験の間だけだから我慢して。暴れたり寝返りをうたないように、こうやって固定するの」
「はい」
「博士。こっちの方は準備出来ました」
「よろしい。それではこれを相原君に」
フィーナは広美の両手首にケーブルが付いた皮製のベルトを巻き、マジックテープで止めた。

01-16.png

「手首が少しチクッとするけど、すぐおさまるから」
 そう言ってフィーナは手元にあったスイッチをオンにした。
「キャッ」
 広美は声を出すと同時に体を少しビクンとさせた。ケーブルから微弱な電気が流れたのだ。続いて神尾は広美の傍に持ってきた機材に繫がっている、ヘルメットのような物体を広美の頭に被せた。そしてモニターのスイッチを入れ、端末のスイッチを次々とオンにした。広美の頭の上にある物体が眩しく光って点滅し、広美は次第に意識が朦朧としてきて、ついに意識を投げ出して深い眠りについた。
「博士。相原さんが睡眠状態になりました」
「よし。解析機のスイッチを入れるんだ」
 フィーナは神尾が言ったスイッチをオンにした。低い唸りのような音とともに、広美の頭の上にある物体が点滅し続け、メインコンピューターのランプも点滅する。その様子を春香は不安そうにジッと眺めていた。
「(広美ちゃん大丈夫なのかな・・ )」

  *    *    *    *

「ん・・・  んん・・  う~ん」
 眠っている広美の口から吐息とともに声が出てきた。神尾とフィーナはモニターに出てくる画像をジッと見ている。やがてモニターに薄っすらと建物のような画像が現れ、神尾は接続していたパソコンのキーを叩いてから、DVDの録画スイッチを入れた。
「うむ・・ 画像がはっきりと出てきた」
「これは・・・ ?」
「う~ん・・・ 城のようだな・・ それもかなり古い・・・ 一体何処なのだ」
「周りの景色は雪が降っていて見づらいですね」
 広美は横になった状態で時々体をビクンとさせていた。が、固定しているベルトのおかげで、ベッドから落ちるということは無かった。やがて画像には石造りの部屋が映し出された。そしてジャラジャラという金属のすれる音とともに、呻き声が聞こえてきた。
「フィーナ君。アングルを変えてみよう。声の正体を確かめるのだ」
「はい」
 フィーナはモニターを操作して、画像のアングルを変えた。モニターの中で部屋の中が動き、壁に鎖で繋がれている一人の少女の姿が映し出された。姿恰好は白の半袖のブラウスに紺色の吊りスカート。それは牢獄で繋がれている広美そのものだった。神尾はベッドの上の広美の方をチラッと見た。
「この少女は相原君の過去の姿だ。一体何故こんなものが映るのだ・・・・」
 そばで見ていたフィーナは、繋がれている広美の姿を見て何かを感じた。
「(この子・・ それにこの恰好・・ 見たことがある」
「ひ、広美ちゃん! これは広美ちゃんだわ」
「シッ。綾瀬さん。静かに見ていて」
 春香が叫んだのを、美樹子が止めた。広美がベッドの上で体を激しくビクンビクンとさせた。夢で魘されているのだ。神尾がモニターを操作する傍らで、フィーナは広美の体調の状態を表すグラフと数字を見据えていた。
「博士。誰かが部屋に入ってきました」
 2人の大柄な男が部屋に入ってきて、繋がれている広美の前に立った。そのうちの一人が広美を繋いでいる手枷を外し、広美はそのまま床の上に崩れ落ちた。そしてもう一人が広美を立たせると、両手に手枷を嵌め、連結された鎖を引いて広美を歩かせた。神尾とフィーナはジッと成り行きを見ていた。石造りの回廊を罪人のように鎖で引かれて連行され、やがて建物の外へ出る様子が映し出される。外は真っ白で雪が降っている。
「うう・・  さ、寒い・・・ 助けて・・ 」
 傍らで広美が声を漏らした。フィーナが見ると、広美はガクガクと体を震わせている。画面には真っ白な冬の雪道を、鎖で引かれて歩く広美の姿が映っている。
「はぐうっ! ああっ!」
 広美が突然叫び声とともに体がベッドの上で飛び上がるようにガクンと跳ねた。モニターには男の一人が広美の後ろから鞭で叩きつけている様子が映っている。広美の体はさらに暴れるようにガクンガクンと揺れ、手首と足首には赤い痣が浮き出てきた。春香が立ち上がって広美の傍へ駆け寄った。
「広美ちゃん。広美ちゃん!」
 春香は神尾の方を向いて言った。目には涙がたまっている。
「博士。もうやめてください。このままじゃ広美ちゃんが死んじゃう」
 フィーナと美樹子が取り乱している春香を抑えた。
「綾瀬さん落ち着いて。大丈夫だから」
 フィーナは広美の体調グラフを見た。メーターが上がり、赤色の光が点滅している。
「博士。これ以上は無理です。もう汗びっしょりで、呼吸・脈拍ともに限界に近づいています」
「う~む・・・・ 仕方が無い。今日はこれで打ち切りにしよう」
 神尾はパソコンにデータをリンクし、これまでの記録を全て記憶させた。スイッチがオフになり、うなされていた広美は静かになった。
「フィーナ君。点滴の用意」
「はい」
 フィーナは点滴の道具を持ってきて広美の傍に置くと、固定していたベルトと手首のベルトを外し、広美の腕に消毒液を浸してから、点滴の針を刺した。
「これで大丈夫。続きは明日やろう」
「嫌だ。もうやめて。これ以上広美ちゃんが苦しむのを見たくない」
「はる・・ ちゃ」
 目を覚ました広美が春香を呼び、気付いた春香は広美の方を見た。広美は手で春香に傍へ来るよう合図をしていた。
「春香ちゃん・・ 止めないで。これは私が望んだ事なんだから」
「ダメよ。これ以上やったら広美ちゃんが死んじゃうよぉ」
「大丈夫だってば。私はどうしても、自分の無くした過去の記憶をたどりたいの。分かって頂戴。春香ちゃんも私と同じ夢を見たんでしょ?」
 春香は大粒の涙を流しながら、広美の言う事にウンウンと頷いていた。
 
  *    *    *    *

 翌日の午後・・・
 昨日と同じように、広美は神尾の実験室でベッドに横になっていた。器具が光って点滅し、モニターには広美が過去に体験した出来事が写し出されていて、もう一つのモニターには広美の体調を表すグラフと数字が出ていた。今日は春香は一緒ではなかった。春香はこの時間は講義があり、また広美が春香を心配させないように、実験の時間が変更されたと嘘をついていたのである。昨日と違って、広美は意外と落ち着いていて、体の動きも少なかったので、実験と解析はスムーズに進んでいた。神尾とフィーナは時々広美の様子を見ながら、機器の操作を続けていた。
「博士。今日は比較的落ち着いているみたいですね」
「うむ・・ 慣れてきたのであろう。赤羽君の薬も効いているに違いない。それにしてもこれはかなりショッキングな体験だな。相原君はこんな事を過去に体験していたのか。しかも中世のヨーロッパへタイムスリップとはな・・・  そういえばフィーナ君。確か君も同じような境遇に陥ったと言った事があったな」
「はい。私も・・・ (私も昔、中世にタイムスリップして・・ 確かあの時修道院のシスターに拾われたんだっけ・・・ そして院長の勧めで修道女になって・・ そうか。相原さん、いや広美ちゃんはあの時の女の子だったんだわ・・・ )」

01-17.png

 モニターには、凄まじい拷問の様子と、絶叫して悶絶する広美の姿が映し出されている。フィーナは神尾とともに、モニターの画面を食い入るように見ていた。フィーナの目からはツーッと涙が流れ落ちていた。
「かわいそう・・・ こんな酷い目にあってもジッと耐えていたなんて・・・ 」

 さらに次の日も同じ実験と解析が繰り返され、ある程度のデータが蓄積されて、神尾は納得したように一つため息をついた。今日は春香も付き添っていた。が、心配していた広美は静かにベッドに横になっていたので、安堵感からか、ジッと成り行きを見守っていた。
 全ての電源が止められ、神尾は周囲にあった機材や道具を、フィーナとともに片付けた。広美はいつものように、実験終了とともに点滴を受けていた。
 広美が目を覚まして起き上がると、春香が駆け寄ってきて飛びついた。
「広美ちゃん良かったね。これで終わりだって」
「春香ちゃん。そんなにきつく抱きしめられたら苦しいよ」
「あ・・ ゴメン」
 春香は広美から離れた。そこへ神尾がやってきた。
「相原君。今日で一通り終わりだ。データを整理して、解析した内容を君に知らせるから・・・ そうだな。3日あればいいだろう」
 神尾は壁のカレンダーを見た。
「3日後は日曜か・・・ 。それでは来週の月曜に結果を教えるから、私の研究室に来たまえ。時間は追って知らせる」
「分かりました。ありがとうございます」
 広美は神尾に一礼すると、春香と一緒に実験室の建物を出た。

  *    *    *    *

 広美は自分の部屋で、春香と一緒にテレビを見ながらコーヒーを飲み、お菓子を食べていた。春香が広美の事が心配でたまらず、一緒に寝るといって聞かないので、広美は仕方なく春香の我侭に付き合うことにしたのだ。そんな事が3日も続いて、今は日曜の夜。
「ねえ・・ 広美ちゃん」
「何? 春香ちゃん」
「私まだよく分からないんだけど、あの実験は広美ちゃんの夢の分析なんだよね」
「うん」
「何で小学生の頃の広美ちゃんと私が出てきて、広美ちゃんがあんな惨い事されてるんだろうって・・ それに私まで同じ様な事されて・・・ あんなの絶対に嫌だよ」
「私もまだよく分からないのよ。ただ・・ あの時・・ 」
「あの時って?」
「ほら。10年位前だったかな・・ 春香ちゃんと一緒に学校から帰る途中で、強い光を浴びた事があったじゃないの」
「うん。よく覚えているよ。道端で倒れてる広美ちゃんを見つけたんだよね」
「あの光を浴びて、別の世界へ行っていたような感じがするのよ・・・ あっ」
「どうしたの?」
「もう12時になっちゃうよ。そろそろ寝ないと。明日は朝一番の講義があるのよ」

  *    *    *    *

 広美と春香は草原の上を二人で手を繋いで歩いていた。そこが何処なのかは二人とも分からなかった。勿論二人が育った渚島の風景ではない。どちらかといえば、タイムスリップした中世のヨーロッパの風景に近かった。
「ねえ広美ちゃん」
「何? 春香ちゃん」
「私・・ 広美ちゃんと一緒にいられて、すごく幸せだよ。私、広美ちゃんが大好き」
「私も。春香ちゃんが好きだよ」
「嬉しい」
 そう言って春香は広美に抱きつき、唇を重ねた。
「んんん・・・ 」
 広美は春香にキスされて顔を真っ赤にし、春香は広美と唇を重ねたまま、広美を押し倒した。
「ちょ・・ ちょっと春香ちゃん。キャッ」
 広美は春香を引き離そうとしたが、春香はガッチリと広美に抱きついているので、引き離す事が出来ない。
「広美ちゃん大好き。好きすぎて・・ 絶対離したくない」
「春香ちゃん。そんなにギューギュー抱きしめないで。く、苦しい・・・ は、はる・・ ちゃ」

 ピピピピピ
「え?」
 目覚ましの音で広美は目が覚めて我に返った。
「夢・・・・ って・・ これって・・ 」
 目覚めた広美の上に春香が覆いかぶさるように抱きついていて、春香の両腕は広美の体に絡みつくように広美を抱きしめている恰好になっていた。春香はというと、広美の胸に顔を埋めた恰好で可愛らしい寝息を立てて眠っている。
「春香ちゃん起きて。朝だよ。はるちゃ!」
「え・・・  ひろ・・み・・ ちゃ・・・ん・・ 大好き・・・」
「寝ぼけないで。起きてったら!」
 春香が目を覚ました。
「広美ちゃんおはよう」
「何でもいいからはやく離れて。そんなにギューギューされたら苦しいよ」
「あ・・ ゴメンゴメン。寝相悪くて」
 ようやく春香が離れて、広美は伸びをしてから深呼吸した。春香は立ち上がると、ジャージ姿のまま玄関へ向かった。
「広美ちゃん。私、部屋へ行って着替えてからまた来るから」
「分かった」
 春香はそそくさと扉を開けて出て行き、広美は膨れっ面をしながら寝巻きを脱いで着替え始めた。


 広美は神尾博士の実験で、タイムスリップした時の体験の記憶が全て甦っていた。しかし美樹子に貰った薬(精神安定剤の一種)が効いてきてからは、悪い夢を見ることは無くなった。

  *    *    *    *

 その日の夕方、広美は春香と一緒に神尾博士の研究室にいた。二人とも今日の授業は全て終わっていて、神尾も今日の講義を全て終えていた。神尾は広美と春香を椅子に座らせると、実験と解析のデータを机の上に置いた。
「相原君。まあ見てみたまえ」
 神尾は広美を促した。
「君が夢の中で見たものが全て、そのデータの中にあるぞ」
 広美は神尾に渡されたデータを、春香と一緒に眺めた。広美も春香も身体が微妙だがブルブルと震えていた。
「間違いないです。私が夢の中で見たものです。それに・・・ 私、自分が中世のヨーロッパにタイムスリップした事を思い出したんです」
「うむ・・・ それにしても凄まじい体験だな。データによると、君たちは約半年の間、中世のヨーロッパにタイムスリップしていた事になる」
 広美と春香は生唾を飲んだ。
「そして再度のタイムスリップにより、君たち二人は現代・・・ つまり今から10年前の君たちの世界に返ってきたわけだが、 その段階で君たち二人は、半年間の出来事の全てが記憶から消し飛んでしまった。そして最近になって再びそれが二人の夢の中でフラッシュバック現象を起こして甦ったというわけだ」
「どうしてなんでしょう? 今頃になってそんな事が」
「今からその事について説明しよう」
 神尾は立ち上がると、部屋の端にあったホワイトボードを持ってきた。
「まずこの線が君たち二人の人生の過程だとする」
 そう言って神尾は線を引いた。
「その人生の過程の中で、ここで君たち二人はタイムスリップをした。その先は中世のヨーロッパ。そしてそこで君たちはそこにあるデータにあるような体験をしていた。その期間が約半年」
 神尾は最初に引いた横線に交差するように縦線を引き、横線の下にもう一本横線を引いた。
「そして君たち二人が再度のタイムスリップで元の世界に戻った。それがここ」
 神尾は最初のタイムスリップの場所に赤丸をつけた。
「分かりやすく言えば、君たちがタイムスリップして中世のヨーロッパへ飛ばされた時と、再びタイムスリップして元の世界に返ってきた時の時間と時刻が同じだという事なんだ。これは私の仮説だが、飛ばされた時刻と戻ってきた時刻が同じという事は、君たちの半年間の体験が、時間の凝縮現象によって歪められ、圧縮された・・・ ということなのだ」
 神尾は赤丸の部分を指差しながら、今度は両手を少し広げてからゆっくりと手を合わせた。
「その現象によって記憶が押し潰されて飛ばされたのであろう。何か心当たりがあるだろう」
「はい・・・ 確か・・ 強い光を浴びた時までは分かっていたんだけど、気がついたとき、春香ちゃんが私の目の前で叫びながら泣いていたのを覚えています」

01-18.png

「その段階では、君たち二人の記憶は既に消し飛んでしまったあとなのだな」
「はい。別の世界へ行っていたような気はしたんですけど、何も覚えてなかったんです。でもまだ、はっきりしないんです。確かにタイムスリップして酷い体験をした事は思い出したんだけど、どうしてこんな事になったのか分からないんです」
「それは、さすがの私でも分からんね。タイムスリップした理由まではね・・・ フラッシュバック現象にしても、個人差があるのだ。君たちの場合は最近になって現れ始めたという事しか、現時点では分からない」
 コンコン
 扉をノックする音が聞こえた。
「入りたまえ」
「失礼します」
 そう言って入ってきたのは美樹子だった。美樹子は入ってくると、広美と春香が座っている向かい側の椅子に座った。
「私もデータを一通り見させてもらったわ。相原さん、データの記述の中にトリステルとシュタイニバッハという表記があったのよ。心当たりはあるかしら」
広美は無言で首を横に振った。代わりに春香が聞いた。
「それ・・ 何なんですか?」
「名前からすると地名だと思うわ。多分ドイツかオーストリア・・・ 」
「地名?」
「あ・・・ 」
「どうしたの? 広美ちゃん」
「トリステルで思い出した。確か修道院の名前だったわ。私が牢獄に繋がれていたとき、その修道院の人とあったことがある。確か・・・ 名前がフィーナって・・ ああっ」
 広美は我に返って素っ頓狂な声を出した。先日出逢った神尾の助手の名もフィーナだったからだ。ここで神尾は、広美にとって衝撃的な事を広美に言った。
「相原君。私の助手のフィーナ君と、君が出会った事があるフィーナという女の子は同一人物だ」
 神尾の言葉に広美は固まった。春香は、黙って聞き流していた。神尾は話を続けた。
「実は、フィーナ君も君と同じようにタイムスリップしたのだ。そして牢獄で君と出会った」

01-19.png

「フィーナさんが・・・  あの時のフィーナちゃん・・・ それで・・ フィーナさんは今日はいないんですか?」
「フィーナ君は一昨日、留学期間が終わってドイツの大学へ戻るために日本を離れた。これを君に渡してくれるよう、フィーナ君から頼まれている」
 神尾は封書を広美に渡した。中には手紙と略図のようなドイツの地図が入っていた。広美は封を開けて中の手紙を読んだ。春香が覗き込んだが、ドイツ語で書かれていたので、春香には分からなかった。
「(広美ちゃんすごいな・・・ ドイツ語が読めるんだから)」
 一通り読み終えた広美は、手紙を封の中に入れて机の上に置くと、神尾を見て言った。
「驚きました。フィーナさんが私たちと同じ境遇だったなんて」
「ねえ広美ちゃん、それでなんて書いてあったの?」
「出来る事なら、私にシュタイニバッハに来るようにって。そうすれば私たちの事でさらに詳しい事が分かるかもしれないって書かれていた」
「どうだね。行ってみるかね相原君」
「はい。出来る事なら。でも・・・ 」
「どうかしたかね?」
「お金が・・・  私や春香ちゃんの経済力じゃ、ドイツへ行くだけのお金が無いです」
「そうだよね。私たちがやってるコンビニのバイトじゃ、生活費しか賄えないし。学費は実家からの仕送りだし・・・  でも・・・ もっと割りの良いバイトをすれば、短期間でお金が稼げるかもしれないな・・・ 」
「春香ちゃん。割の良いバイトって・・ 。ねえ、はるちゃ! もしかして、キャバレーのホステスとか、そんな事考えてるんじゃないでしょうね?」
「そうじゃないよ。前にクラスの友達から聞いたんだけど、『バキュームカーのタンクの清掃』と、『火葬場の煙突掃除』と、『解剖した人間の死体洗い』は、すごくお金が良くて、短期間で稼げるんだって」
「バカ!! そんなもん出来るか!!」
 広美は顔を真っ赤にして怒って春香に言った。
「冗談だってば。広美ちゃん。そんなに怒らないでよ」
 そこへ美樹子が口を挟んだ。
「相原さんに綾瀬さん。二人してこんな所で漫才なんかしないで。割の良いアルバイトだったら、私が紹介してあげるわよ」
「え? 赤羽先生が?」
「そう。悪い仕事じゃないわよ。相原さん。どうする?」
「雇い主は君の目の前にいる」
 不気味そうな低音の声で、神尾が喋り、驚いた広美は神尾を見た。
「博士が・・・ ですか?」
「実は、フィーナ君がいなくなって、新しい助手を探しているんだが、適任者がいないのだよ。それで、君さえよければ、私の助手をやってほしいのだ、君は私の講義を二つも取っているし、いや・・ 去年からだと三つだな。提出するレポートの内容も成績もまずまずだからね。是非頼みたい」
 広美は自分が体験した事をもっと詳しく知りたかったので、何としてでもドイツへ行きたかった。それで迷わず返事をした。
「やります。博士。是非助手にしてください」
「うむ・・・」
「広美ちゃん。それじゃコンビニのバイトはどうするの? 広美ちゃんがいなくなったら、私一人になっちゃう」
「コンビニのバイトはやめる。掛け持ちなんてとても出来ないし」
 春香はガッカリしたような顔で広美を見た。
「綾瀬さんは私の元で手伝いをしてくれないかしら。綾瀬さんのことだから、相原さんと一緒に行くって言うだろうし。どうする? 報酬はちゃんと出すわよ」
「お、お願いします」
 春香は自分もドイツへ行きたいばかりに、二つ返事でオーケーした。
「これで決まったな。相原君。それでは早速来週の月曜からやってもらおうか。それで、君の授業の時間割を私に提出したまえ」
「綾瀬さんも私の方に出して」
「はい」
「わかりました」

  *    *    *    *

 そして一週間が瞬く間に過ぎ、今日はその月曜日。広美は今日は神尾の授業がある(生体工学概論のゼミ)のだが、授業の前に研究室に呼び出されていた。広美は自分自身の希望で、神尾に言われた翌日の火曜日から研究室に入り浸りになり、神尾の仕事の手伝いと身の回りの事をやっていた。助手になるならば、いい加減な気持ちでは勤まらないと悟った広美は、正式に助手になる前に、少しでも仕事を覚えようと必死で神尾についていった。
「うむ・・・ このレポートはよくまとまっているな。よし。これを今日のゼミで使う事にしよう。さあ行こうか」
 神尾は広美を促し、広美を伴って研究室を出てゼミの教室へと向かっていった。神尾の恰好は相変わらず奇抜で、いわゆるコスプレであり、常に学生達の目を引いていた。勿論広美や春香も然りである。今日も自分に付けられたあだ名の、死神博士のスタイルだった。


 その日の夜。大学から帰ってきた広美は自分の部屋へ戻ってくると、服のままベッドに横になり、そのまま寝入ってしまった。これまでのスケジュールが、広美にとっては激務だったため、ついに今まで溜まっていた疲れがドッと出たのだ。


 それからどれくらい時間が経過したのか・・・
 広美は目を覚ました。室内の照明はそのままだったので部屋は明るい。
「いけない・・・ 私寝ちゃったんだわ」
 時計を見ると、午前1時を回ったところだった。広美は慌てて服を脱ぎ、下着姿になって風呂場へ行こうとして、ふとテーブルの方へ目をやった。テーブルの上にはコンビニの袋と書置きが置かれていた。
「あれ? 私、今日買い物してないな・・・ これは?」
 そう呟きながら広美は書置きを見た。
『遊びに来たけど、広美ちゃんが可愛い寝顔で寝ているので、これ置いて帰るね。追伸 そのままだと風邪引くよ。 春香』

01-20.png

「春香ちゃんか・・・ 心配してくれてありがとう・・ 」
 広美は一つため息を付くと、風呂場へ行ってシャワーのバルブを開き、着ていたものを全部脱いで脱衣場の籠の中に入れると、風呂場の戸を閉めた。

  *    *    *    *

 とにかく最初の一ヶ月間は広美にとっては、拷問に等しいくらいの苦痛の連続だった。苦痛は肉体的なものでなくて、精神的なものだったが、帰ってくるなりベッドにバタンキューというパターンが続いた。神尾の行動は、普通の人では計り難く、何時どんな行動に出るか分からない、また何時何をしでかすか分からないという、奇抜さを通り越して不気味ささえ醸し出していたので、広美としては神尾の行動についていくのがやっとだったのだ。そんなある日の事、広美は研究室でパソコンを眺め、書類を整理しながら呟いた。
「あー・・ しんどい・・ しかし・・ フィーナさんも博士によくついていけたわね・・ 」
「ン? 相原君・・・ 何か言ったかね???」
「え? あの・・・ な、何でもありません」
「ちゃんと聞こえているぞ」
 神尾は超低音のドスの効いた声で言った。
「ご、ごめんなさい」
「別にいいよ。今の君がフィーナ君の代わりをするのは大変だろうが、頑張ってくれたまえ」
 広美はすまなそうな顔で神尾に向かって頷くと、再びパソコンの画面に目をやった。
「(とにかく何が何でも博士についていくしかない・・  ここまできたら、投げ出したり音を上げるわけにはいかないわ。何だかわかんないけど、フィーナさんには負けたくない・・・ )」
 広美は意外と勝気な所があり、一度引き受けたものは何が何でもやり通すという、強い責任感があったので、その感情と精神力が広美自身を支えていた。ちなみに、その広美の性格が、かつて受けた酷い仕打ちに耐え続けていたということを裏付けていた。

  *    *    *    *

 そして何だかんだで一ヶ月が過ぎた。この頃になると広美はまだまだフィーナほどではなかったが、神尾の行動力をほぼ完全に把握し、ある程度は神尾の次の行動を読めるくらいまで成長していて、神尾にしっかりとついていけるようになっていた。
 そんなある日、広美は雨が降りしきる様子を、研究室の窓から眺めていた。梅雨空のジメジメした憂鬱な天気だった。
「あ~ぁ・・・・ このごろ春香ちゃんとすれ違いが多くなっちゃった。会えるのは同じ授業の時くらいになっちゃったな・・・ 」
広美と春香のスケジュールが違っていたので、お互いが会う機会が少なくなってしまっていた。
「春香ちゃん・・ 赤羽教授の手伝い、ちゃんとやってるのかな・・・ 」

  *    *    *    *

 そしてさらに一ヶ月が過ぎた。今、大学は前期試験の真っ最中だった。試験が終われば学生は夏休みに入るのだが、広美は神尾博士の助手、春香は赤羽教授の手伝いをそれぞれやっていたので、他の学生のようにバカンスを満喫などという楽しみには程遠い状態だった。
 そんな中での昼下がりに、広美と春香は学食で久々に会って食事をしていた。
「広美ちゃん。髪伸びたね」
「うん・・ 美容院に行ってる暇が無かったから。伸びすぎちゃった」
「それはそうとして、一昨日は何の日だったか知ってる?」
「え? 一昨日?」
「あーっ! ダメだよ広美ちゃん。自分の誕生日なのに忘れてる」
 広美は一昨日。つまり二日前が20歳の誕生日だったのだ。が、前期試験の真っ最中だった事と、神尾博士の助手が激務だったため、自分の誕生日すら忘れていた。
「はい。広美ちゃん」
 そう言って春香はリボンのついた包みを広美に差し出した。
「遅くなったけど、20歳おめでとう」
「わあ・・ ありがとう春香ちゃん」
「それからこっちは私からのおごりよ」
 春香は椅子の脇においてあった紙袋から箱を取り出してテーブルの上に置くと、箱を開けた。中からケーキが二つ出てきた。
「一緒に食べよう」
「ありがとう。それじゃいただきます」
 二人でケーキを食べている間、春香は広美をジーッと眺めていた。
「ど、どうしたの春香ちゃん」
「広美ちゃん・・ 少し痩せたんじゃない?」
「そう見える?」
「見えるよ。いや、見えるなんてもんじゃないわよ。広美ちゃん本当に大丈夫なの? あの博士は大学でも変わり者で有名な人だよ。なにせ『死神博士』ってあだ名があるくらいなんだから。博士の行動力に誰もついていける人がいないから、助手が勤まる人がいないっていうし、これまで助手になった人の中には、過労や鬱病で入院した人までいるそうよ。何だか広美ちゃんがかわいそう」
「春香ちゃんの方はどうなの?」
「私は大丈夫だよ。そんな事より広美ちゃんの方がずっと心配だよ」
 春香が心配するのももっともだった。春香の言う通り、広美は神尾の助手を始めてから激務が続き、確かに痩せていた。それに自分の身の回りの事をする時間が殆ど無かったので、髪も切らずにいたのでショートカットだった髪はセミロングより少し長めになっていた。そのためになおさら痩せて見えているのだった。
「あ・・ そろそろ試験の時間だ。行かなきゃ」
「広美ちゃんあと何教科あるの?」
「二教科。一つは神尾博士の授業のレポートだから、実質一教科だね。春香ちゃんは?」
「私は今日の午前で終わり。ねえ、試験全部終わったら打ち上げやろうよ」
「そうだね。それじゃ私、試験があるから」
 広美は立ち上がった。
「頑張ってね。それから、体に気をつけてよ」
「ありがとう」
 広美は踵を返すと、学食の出口へ向かって歩いていった。

  *    *    *    *


01-21.png

 そして試験が全て終わり、広美と春香は大学の構内を歩きながら話をしていた。
「えーっ? 今年は帰らないの?」
「うん。博士の助手として研究の手伝いがあるから、帰りたくても帰れないのよ。それに、来年の春にはドイツへ行くんだし、そのための資金も稼がないと」
 春香はがっかりしたような顔で広美を見た。気付いた広美は春香を宥めるように言った。
「春香ちゃんだけでも帰ったら?」
 広美が春香に言うと同時に、二人のすぐ後ろから、例の超低音の不気味な声が聞こえてきた。
「相原君も帰りたまえ。御両親が心配するぞ」
 ビックリした二人は後ろを振り返った。するといつの間にか、二人の真後ろに神尾が立っていた。
「は、博士。いつの間に・・・」
「気付かなかったかね? 君たち二人が会った時からずっと後ろを歩いていたんだが」
「でも博士・・ 研究は?」
「君が助手をやってくれていたおかげで、今回の研究はあらかた目処がついた。続きは後期が始まってからだ。ワシも明後日から半月くらい休暇が入るし、今月の終わりには海外で学会があるから日本を離れてしまう。従って暫く研究室も留守になる。君も休み中ぐらいは故郷に帰りなさい」
「は、はい・・・ 」
「それから・・ これは少ないがとっておきたまえ。これまでの報酬だ」
 そう言って神尾はマントの中から封筒を出すと、広美に封筒を渡した。
「それでは相原君。後期になったらまたよろしく頼む。それではお二方。ごきげんよう」
 神尾はマントを翻して踵を返すと、唖然としている二人を尻目に自分の研究室の方へ向かって歩いていった。
「広美ちゃん・・ 報酬って・・ 」
 広美は渡された封筒を見た。ズッシリとした重みがある。開けてみると、10数枚の1万円札が出てきて、二人は目を丸くして驚いた。

  *    *    *    *

 広美と春香が故郷の渚島に帰省して1週間が過ぎた。
「広美ちゃーん。早く早くぅ」
「ちょっと待ってよ。春香ちゃん」
 夏休みで渚島に帰ってきた広美と春香は、島の海岸を走っていた。前を走っていた春香が立ち止まったので、後ろから追いかけてきた広美は、春香にぶつかって抱きつく恰好になった。
「キャッ! はるちゃ。どうしたのよ。急に止まったりして」
「ゴメンゴメン・・・ でも、それにしても私たちの故郷って、こんなに綺麗だったのね」
「うん。久しぶりで帰ってくると、なおさらそう感じる」
 海岸に腰を下ろした広美と春香の視線の先には、広い海と青空が広がっていた。

01-22.png

 夕方近くになって、広美と春香は家路に向かっていた。二人が歩いている道路わきには、二人が昔通っていた小学校と中学校が見えた。歩いている二人の横から、下校する小学生たちが小走りに二人を追い越していく。その中の吊りスカートの制服を着た女の子たちが走り去っていく後ろ姿を見て、広美と春香は過ぎ去った日々を思い起こしていた。
 やがて二人は例の分かれ道まで来て、そこで立ち止まった。
「ここで私たち、中世のヨーロッパにタイムスリップしたのね」
「うん・・・ 」
「でもこうして周りを見ると、昔とあんまり変わっていないんだよね」
「変わっているのは、道がアスファルトになったのと、私たちの視線が高くなって、道が狭く感じる事かな・・・」
「それに周りの木も高くなったね」
 広美と春香は日に焼けたお互いの顔を見合った。
「それじゃ春香ちゃん。また明日ね」
「うん。広美ちゃんバイバイ」
 二人はお互いに手を振り合い、それぞれの家に向かって再び歩き出した。

  *    *    *    *

 広美と春香が故郷の渚島にいた頃、神尾は学会のためドイツに来ていた。飛行機がミュンヘンの空港に到着し、神尾が出入国ゲートまで出てくると、そこにかつての助手であったフィーナが立っていた。
「お待ちしてました博士。ここからは私が案内します」
「やあ。フィーナ君。出迎え大儀であった。それでは頼む」
 神尾はフィーナの案内で、ミュンヘンの駅へと向かった。神尾が向かう先はミュンヘンから西へ200kmほど行ったところにあるトリステル大学で、フィーナの母校である。トリステル大学は元々は修道院で、かつては現在の場所よりもさらに南の、スイスとの国境まで50kmぐらいの山の中にあったのだが、時代とともに施設が老朽化したために現在地に移転し、20世紀になって大学として再出発。その後起こった二度の大戦でも、この場所と周辺地域は戦災を免れて現在に至る。そして元の場所の修道院の施設は、近くに観光地があることから、老朽化した建物や施設を修復し、現在は宿泊施設(冬季は閉鎖)を併設した記念館となっている。
 ミュンヘンから特急列車に乗り、トリステルに到着した神尾は、フィーナの案内で予約していた市内のホテルに入った。
「それでは博士。明日の朝お迎えに来ます」
「うむ。分かった」
「それでは博士。お休みなさいませ」
 フィーナが去り、神尾はチェックインをするためにフロントへ向かって歩いていった。

    *    *    *    *

 それから10日が経過した。全ての学会が終わって、神尾はトリステル大学の構内にある広場のベンチに座っていた。そこへフィーナがやってきたので、神尾はベンチから立った。
「博士。ご苦労様でした。学会は大成功でしたね」
「おお・・ フィーナ君か。こちらこそ通訳ありがとう。ドイツ語は聞く分には殆ど分かるんだが、喋るとなると難しいのだ」
 神尾は一息ついてからフィーナに聞いた。

前23

前24

「フィーナ君。私はこれでも超自然現象研究の世界的権威でもあるのだ。君は子供の頃に超能力があったと言っていたが、差支えが無ければもっと詳しい話を聞きたいのだ」
「はい・・ 超能力の事は、確かに以前博士に言ったことがあります」
「それでだ。君が持っていた超能力とは、君自身が中世にタイムスリップした事と、何か関係があるのではないのか?」
「おっしゃる通りです。私は子供の頃に念力・・・ だと思うんですけど、そういう力があったんです。それで、ある日中世に行きたいって念じたら、本当に中世の世界へタイムスリップしてしまったんです。それで、修道院のシスターに拾われて、その修道院の院長・・・ 確かカルラっていったかしら・・ その人の勧めで修道女になったんです。修道院の名前は、この大学の前身であるトリステル修道院だと聞いています」
「中世にいたその期間が大体半年だったのか」
「はい・・ 博士。何故知ってるんですか? この事はまだ言ってなかったのに」
「相原君だよ」
「相原さん? 広美ちゃんのことですか?」
「そう。彼女もタイムスリップして約半年、中世のヨーロッパにいた。その時にシュタイニバッハの牢獄で君と出会った。そうだったな?」
「はい。先日の相原さんへの実験と解析で、はっきりと分かりました」
「これは仮説だが、相原君と綾瀬君のタイムスリップは、君のタイムスリップと関係があるのではないかと思う。つまり、君が念じた時、あの二人をタイムスリップに巻き込んだということだ。何故その仮説がたったかというと、あの二人と君がタイムスリップした時間がほぼ一致しているからなのだ。だから君が元の現代の世界へ帰りたいと念じて、現代に戻ったとき、あの二人も同時にタイムスリップによって現代に戻った。そして、その戻った時刻は飛ばされる直前の時刻とほぼ同じ。それで時間の凝縮現象によって記憶が圧縮され、戻った当時は君はタイムスリップしていた間の記憶を失っていた。確かそうだったな?」
「そうです。すると、あの二人のタイムスリップの原因は私・・・ ああ・・ 何て事してしまったんだろう。あの二人に申し訳ない」
「まあまあ、フィーナ君。取り乱さないで落ち着いて聞きたまえ。これはあくまでも仮説だ。従って君が原因だと断定するだけの根拠は無い。それでどうするかね?」
「どうするって・・・ 」
「私はあの二人には今の話はしない事を約束する。それで君がどうしたいのか聞きたい」
 フィーナは少し考えてから神尾に向かって返事をした。
「私が話しをします。あの二人はきっとここへやってくる。だからその時に」
「うむ・・・ いいだろう。君が話す。それが一番いい・・・ さてと・・・ 」
 神尾は再び大学の建物の方へと歩き始めた。フィーナも神尾の後ろをついていったが、神尾は立ち止まってフィーナの方を振り返った。
「フィーナ君。学会も終了したので、ワシは帰国する」
「待ってください博士。もう一ついいですか?」
「何だね? 言ってみたまえ」
「相原さん・・・ 広美ちゃんはどうしてますか?」
「相原君は、君の後を継いでワシの助手になっとるよ。まだ今ひとつパッとしないが、いずれは君に追いついて、君を追い越せるだけの器になるやも知れん。だが、あの子には負けず嫌いなところはあるんだが、人を追い越そうという競争心とか野心というものが感じられんのだ。そこが彼女の欠点かも知れんな」
「そうですか・・・ でも、あの子ならきっと、博士の助手として相応しい逸材になるかもしれませんね」
「まあ・・ しいて言えば未完の大器ってところかな・・・ それではワシは帰る。君もくれぐれも体に気をつけてな」
「はい。Danke schön(ありがとうございます)」
「Bitte sehr(どういたしまして)」

    *    *    *    *

 広美と春香は後期が始まる一週間前に渚島から東京に戻り、二人ともそれぞれ神尾と美樹子に呼ばれて、広美は神尾の助手。春香は美樹子の手伝いを始めていた。そして夏休みが終わり、大学は後期日程に入った。
 広美は授業出席の傍ら、時間が空いている時は神尾の助手というハードなスケジュールだったが、神尾にしっかりとついていけるようになってからは、以前ほどの激務ではなくなっていた。そんな広美を見ていた神尾は、感心したように呟いた。
「うーむ・・ 相原君も他のやつみたいに音を上げると思っていたが、どうやら違うようだな。ワシの事を見透かしているみたいに、ワシにしっかりとついてきよるワイ。でも、まだフィーナ君を超えてはいないようだな」
「失礼します」
 そこへ広美が本を抱えて入って来た。室内はさっきまで学生達が集まってゼミの討論会をやっていたので、椅子の配置が乱れている。
「博士。頼まれたものを持ってきました」
 神尾は無言でその中の一冊を取り、パラパラとページを捲ってから、机の上に置いた。
「うむ・・ それでは全部机の上に置いてくれたまえ」
「はい」
 広美は返事をすると、本を机の上に置いた。
「相原君。随分焼けたね。それに髪を切ってさっぱりしたし、白衣姿も板についてきたではないか」
「は、はい」

前25

 広美は照れくさそうに笑った。
「しかし、フィーナ君にはまだまだおよばないな。でも、努力次第ではフィーナ君のようにだってなれるし、彼女を越える事だって出来るだろう」
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。ますますやる気が出てきます」
「うむ・・ 今日はもういいから帰りたまえ。たまには早く帰って、ゆっくり休みなさい」
「はい。博士。それでは失礼します」

広美が建物から出た所で、春香とバッタリ出会った。
「広美ちゃん」
「あ・・ 春香ちゃんも今終わり?」
「うん。一緒に帰ろうか」
広美と春香は二人で並んで歩き出した。

前26

    *    *    *    *

 それから瞬く間に3ヶ月が経過した。
 季節は既に冬で、街角ではクリスマスや年末のセールで慌しい空気が流れていた。が、広美と春香は二人ともそれどころではなかった。春香の方はともかく、広美は神尾の助手としての激務が続いていた。しかし助手を始めた頃と比べると、広美は格段に成長していて、既に前助手のフィーナを追い越してしまう勢いであり、神尾のゼミを選択している学生達も、助手をしている広美の行動力を見て感心するほどだった。
「あの女の子って、確か2年生だったよな」
「ああ・・ 相原っていったっけ」
「しかし・・ あの子・・ よくあの死神博士の行動についていけるわね」
「類は友を呼ぶっていうから、大方そっち系なんじゃないの?」
「どっち系だろうと無かろうと、あの子のおかげで神尾博士の、難しい資料やデータが判り易くなったし、感謝しなきゃ」
 学生達は口々にそんな事を言い合っていた。

 冬休みを明日に控え、なおかつクリスマスの前日、広美は神尾の研究室で一人でパソコンと向かいあっていた。傍らには膨大な資料と書類があり、広美はそれらの資料を見ながら、パソコンのキーを打ち込み、データを入力していた。そのスピードも助手になり始めた頃と比べて格段に速くなっていて、始めてから一時間後には、ほぼ全部のデータの入力を終えようとしていた。
「ふうー・・・・ 」
 入力を全部終えて、広美は一つため息をつくと、椅子から立ち上がろうとした。そのとき自分の真後ろに誰かの気配を感じ、振り向いた。
「うわっ!!!!」
 広美の真後ろには何時の間にか、神尾が立っていたのだ。ビックリした広美は素っ頓狂な声とともにバランスを崩して、椅子ごとひっくり返った。
「痛たたたた・・・・ 博士。いつの間にそこにいたんですか?」
「さっきからいたんだが、気付かなかったかね。まだまだ修行が足りぬな」
「広美ちゃん。私も一緒なんだけど・・・ 」
 そう言って春香が神尾のさらに後ろからヒョコッと出てきた。
「春香ちゃん。春香ちゃんもいたの?」
「広美ちゃんが真剣な顔してパソコンやってたから、声をかけそびれちゃったの」
 神尾と春香は、ひっくり返っていた広美の腕をつかみ、立ち上がらせようとした。
「だ、大丈夫です。一人で立てますから」
広美は立ち上がると、両手でスラックスをパンパンと叩いた。
「春香ちゃん。どうして・・ 」
「明日から冬休みなんで、赤羽先生のお手伝いが早く終わったのよ。それで先生が広美ちゃんを迎えに行きなさいって」
 神尾は広美が打ち込んでいたパソコンの画面を眺めた。
「うーむ・・・ 終わったのか。これだけのデータをこの時間で処理できるまでになるとは、大したものだ」
 神尾は広美の両肩に自分の手を置き、自分の方へと引き寄せた。
「キャ・・ な、何ですか博士」
「相原君!」
「は・・ はい」
「今後もずっとワシの助手を続ける気はあるかね?」
「は、はい。喜んで・・・・ 」
 神尾の言葉に、広美は思わず反射的に返事をしてしまった。
「よろしい。それでは今後も頼む。今日はもう帰っても良いぞ。今日の夜はクリスマスイブ。御二人とも楽しいひと時があるのだろう」
 神尾が二人を見透かすように、例の低音の気味の悪そうな声で言った。
「え? ええ・・・ まあ・・ 」
 広美と春香は、お互いの顔を見合ってから、二人揃って照れ臭そうな返事をした。
「相原君。今年の君の仕事は今日で終わりだ。明日からは大学が冬休みになる。後始末はワシがやっておくから、君たちはもう帰りなさい」
「はい。それでは失礼します。それでは博士。良いお年を」
「うむ。ありがとう。グッドラック」
 広美と春香は神尾に挨拶すると、研究室を出た。

 建物から出て、春香は大きく深呼吸した。
「はあーっ・・・・ ドキドキしたぁ・・・ あの博士、何時見ても緊張する」
広美は噴き出しそうなのを堪えて、クスッと笑いながら返事をした。
「無理も無いよね。だって、死神博士って言われているくらいなんだから」
「でも広美ちゃんって本当にすごい。あの博士に完全についていってる」
「何だかわからないけど、ついていかなければって気持ちが強くて、気がついたらもう、はまっちゃってたのよ。そんな事より、ねえ、春香ちゃん」
「何? 広美ちゃん」
「今日はクリスマスイブだよ。ケーキでも買っていこうか」
「うん。そうだね。広美ちゃんの部屋でパーティーやろう」
 そう言って春香は広美の腕に自分の腕を絡ませてきた。
「キャ・・  ちょ、ちょっと、はるちゃ」
「広美ちゃんに甘えたいの。今日の夜は広美ちゃんと素敵なイブを過ごしたい・・」
「もう・・・ (相変わらずの甘えんぼさんなんだから・・・ )」

前27

 広美は呆れたような顔をして、春香から視線を逸らした。
「あ・・・ 雪・・・ 」
 春香がそう言いながら上を見上げた。既に空は暗かったが、上からチラチラと小粒の雪が落ちてきた。
「本当だ。雪だ」
「今日はホワイトクリスマスだな」
 広美と春香は、降り始めた雪の中を駅へ向かって歩いていった。

      *    *    *    *

「はい二人ともこっちに来て」
広美と春香は、二人揃って並んで立っていた。これから何が始まろうとしているのか・・・

前28

 ここは二人の生まれ故郷の、渚島にある神社と集会場の前の広場。二人は成人式の記念写真の被写体になっていたのだ。普通、成人式ならば女性は振袖や晴れ着姿なのだが、広美と春香はスーツ姿だった。二人とも大学に進学したために、そちらの方にお金がかかってしまい、振袖を買うだけの経済的余裕が無かったというのが、その主なる理由だった。二人の前には二人の両親と、数人の親戚の人たちがいた。
「広美。もっと背筋伸ばして」
「春香。もっと広美ちゃんの方へ寄って」
「二人とも。写真撮りますよ」
 カシャッ
 シャッターが降りて、二人の姿が記念写真に収まり、ようやく二人は緊張感から解放された。が、それから二人の親戚一同が集まった食事会などを経て、二人が本当にフリーになったのは、午後3時を回ったあたりだった。
 広美と春香は、昔学校へ通っていた道を二人で歩いていた。
「あーあ・・ パンプスって疲れるし、歩きにくいし足が痛くなるし。それにこのスタイルも何だか自分じゃないみたい」
 広美がぼやいていると、隣で春香が噴き出した。
「何よ。はるちゃ。何がおかしいのよ」
「広美ちゃんも、もう少し洒落っ気出したらいいのに。洒落っ気が無い女の子なんて、溶けたアイスクリームと同じだよ」
「何それ・・・」
「食えたもんじゃ無いって事。このままじゃお嫁さんの貰い手がいないよ」
「大きなお世話」
 春香が広美の腕に自分の腕を絡めて広美に言った。
「ちょっとはるちゃ。恥ずかしいから」
「広美ちゃんにお嫁さんの貰い手がいなかったら、私が広美ちゃんのお嫁さんになってあげる」
「もーっ・・・ 何言ってんのよ。はるちゃ! 私知ってるんだからね」
「知ってるって・・  ??」
「はるちゃが背の高い男の子と、親密な関係だって事」
「な、何で知ってるのよ」
「あ・・ そういう言い方するって事は、図星だったんだ。それにこの前大学の構内で、二人並んで仲良さそうに歩いてるの見ちゃったもん。春香ちゃん。上手くいきそうだったら、私応援するからね。頑張ってね」
「広美ちゃん。そんなんじゃないんだって」
 春香は顔を真っ赤にした。広美からすれば、春香が自分の事を頼らずに、誰かいい人とくっついてくれれば、それでいいと思っていた。いずれ社会に出れば二人とも別々の道を歩む運命にあり、広美は既にその事を充分に自覚していて、もう自分の将来の目標が定まりつつあった。現在アルバイトながら神尾の助手をしているのだが、卒業後は大学院に進学して本格的な助手になり、いずれは教授になって神尾の研究を引き継ごうという思いを抱いていた。だから自分を頼り、甘えてくる春香が将来自立出来るのか心配だったのだ。

 広美と春香は言い合いをしながら、例の三叉路までやってきて、そこで足を止め、周りを眺めた。今から10年前に二人がタイムスリップした場所である。
「ここがあの時、私たちがタイムスリップした場所なんだよね」
「うん。そして中世のヨーロッパにタイムスリップして、魔女にされて牢獄に繫がれた・・ 」
 広美と春香が立っているその場所とその周辺は、二人が小学生だった頃と殆ど変わらず、全く同じ風景だった。違うのものといえば、砂利道だった道路が舗装道路になり、近くに生えている木々が高くなったことと、二人の視線があの時より高く、歩いている道も狭く感じているということだった。
「春香ちゃん行こうか。明日は東京へ戻る日だし」
「そうだね。準備しなきゃ」
「それじゃ春香ちゃん。また明日ね」
「うん。広美ちゃんバイバイ」
 広美と春香は三叉路で別れて、それぞれの家へと向かって歩いていった。

01-23.png

01-24.png


************************************


 広美と春香が東京へ戻ってきて一週間が過ぎた。広美は神尾の仕事が大詰めになっていて、その仕事を手伝うために毎日朝一番で大学へ行き、帰ってくるのも夜遅かった。一方の春香は美樹子の手伝いをしていたものの、大体授業の時間割に合わせた生活をしていたので、広美とのすれ違いが極端に多くなっていた。しかも後期試験まですぐだったため、広美は空いている時間は図書館に入り浸りになっていて、なおさら春香と顔を会わせる時間が無かった。そんなある日の事・・・
 広美はこの日は授業が午前中だけだったので、午後は神尾の研究室で助手の仕事をしていた。そこへ講義を終えた神尾が戻ってきた。
「相原君。ちょっと来たまえ」
「はい」
 神尾は室内の接客用の椅子に、広美に座るよう促した。
「あの・・ 何か・・ 」
「今日の朝、銀行へ行ってきて、これまでの君への報酬を振り込んでおいた」
「ありがとうございます」
「ところで何時ドイツへ行くのかね?」
「後期試験が終わったら、渡航方法を調べて、日程やスケジュールを決めて、それから行きます。一応大学が春休み中の3月にする予定です。」
「そうか・・・  話は変わるが、是非とも君に聞きたい事がある。君はこれからどうしたいのかね? ここ最近、君は私に何か言いたそうだったのでね。それで聞いてみたのだ」
 広美は自分の思惑を、神尾に見透かされていたと感じたので、自分の言いたい事を話した。
「私は将来、大学院まで行きたいんです。それで本格的に博士の助手になって、あわよくば博士のようになりたいと思っています」
「無理だ。やめたまえ!」
「え?」
「ワシのようになりたいだと? 君はワシを超えたいとは言わないのかね。ワシはそんな器の小さい者はお断りだ」
 神尾の言葉に、広美はガッカリしたような顔をした。それを神尾は見逃さず、さらにたたみかけるように広美に向かって言った。
「相原君。ワシの助手の仕事は今日でやめてもらう」
「そ、そんな・・ 私はもっと博士の助手として・・ 」
「ダメだ。競争心や野心の無い者、気持ちに甘えがある者には、ワシの助手は務まらん」
 神尾に自分の心の中を読まれ、広美は泣きそうな顔をして黙って俯いてしまった。神尾は言い過ぎたと思ったのか、今度は穏やかな口調で話し始めた。
「相原君。すまん。ちょっと言い過ぎた。顔を上げたまえ」
「は、はい」
 広美は顔を上げた。
「そこで君にひとつ提案がある。ドイツへ行ったら必ずフィーナ君に会いたまえ。彼女に君たちのガイドをさせる。日程が決まったら私に知らせてくれたまえ」
「フィーナさん・・ ですか?」
「そうだ。フィーナ君はワシの助手として、これまで大きな実績を残し、そして母校のトリステル大学へ戻った。フィーナ君に会えば、今の君がいかに器が小さいか、君自身で知る事が出来るだろう。だから君の事は、君がドイツから帰ってきて3年生に進級してから、もう一度考える事にする。そのときには君の考えも出来上がっているだろう。君をワシの下に置くかどうかは、そのときに決める。それでいいかね?」
「それでいいです。分かりました。神尾博士。今までありがとうございました」
 広美は立ち上がろうとしたが、神尾が制した。
「まあ待ちたまえ。まだ話の続きがあるのだ」
 神尾は話を続けた。
「君を今日でやめさせるのは、もう一つ理由があるのだ」
「何でしょうか?」
「後期試験だよ。後期試験で単位を落としてしまったら、再試験や補講で海外旅行どころではなくなってしまう。だから、試験の準備に専念出来るよう、今日でやめてもらうんだ」
「そうだったんですか」
「くれぐれも言っておくが、ワシの授業の単位だけは落としてくれるなよ」
「はい。分かりました」
 神尾は一通の封筒を広美に渡した。
「報酬の内容だ。一応給料だから、経理の方へ届けねばならんからな。それでは行きたまえ。ドイツでの吉報を待っているぞ」
「はい。失礼します。今まで色々と本当にありがとうございました」
 広美は立ち上がって出入り口の方へ歩き、扉を開けて研究室の外へ出ると、扉を閉めて封筒の中を見た。中には明細と手紙が入っていた。明細には6桁後半の数字が記されていて、広美は驚きのあまり声が出そうだったのを抑えた。さらにもう一枚の紙には『報酬額は正規の給料の他、相原君の未来への飛躍のための保障金である。我が親愛なる相原君の未来に乾杯。旅の無事と成功を祈る』と書かれていた。広美は目頭が熱くなり、何かこみ上げてくるものを感じた。広美は研究室の扉に向かって頭を下げると、小走りにその場を去った。
「(ありがとう博士・・ 私、頑張ります。きっと、博士を超えられるような器になってみせます)」
 小走りに駆ける広美の目からは涙がこぼれ落ちていた。

     *    *    *    *

 それから一週間が経過した。後期の講義はあらかた終了し、あとは後期試験を残すのみだった。広美は講義の無い時間帯は、ずっと図書館に入りびたりで勉強していた。理工学部の性格上、筆記試験の代わりにレポートや課題が多く、とにかく内容が濃厚で、文学部の春香のように余裕を持った時間は無かったのだ。
 この日も広美は図書館で3教科分の課題とレポートを作成していて、それらが全てまとまり、教授の所へ提出できる段取りをしたところで、一息つくために図書館から出て、入り口のところにある自販機で缶コーヒーを買ってから、構内の広場まで行って、そこにあるベンチの一つに腰掛けた。冬の冷たい風が通り過ぎていき、広美は缶コーヒーの蓋を開けて半分くらい飲んだ。冷えた体の中が暖まる様な感触が伝わってくる。

後編01

「ふう・・・  あとは研究室へ持って行けばよし。これで3教科分は片付く・・・ と」
 ふと遠くの方へ目をやると、春香が例の男の子と一緒に歩いている様子が見えた。春香の方は広美に気付いている気配が無い。広美は一つため息をつくと残ったコーヒーを一気に飲み、近くにあった空き缶用のゴミ箱目掛けて放り投げて、缶は見事にその中に入った。
「よし! ストライク!」
 広美は相変わらず遠くを眺めていた。そこへ後ろから急に目隠しをされた。
「だーれだ」
 目隠しをしたのは春香だった。何時の間にか春香は広美のすぐ後ろに来ていたのだ。
「はるちゃ」
「あたり」
 広美は春香が手を離すと同時に振り返った。そこには春香が一人で立っていた。春香はベンチに腰掛けている広美を見つけ、男の子と別れて広美に気付かれないように駆け寄ってきたのだ。
「広美ちゃん最近全然会ってくれないから寂しかったよ」
「春香ちゃん一人なの?」
「え? 一人って・・・ どうして?」
「さっきまで男の子と一緒だったじゃないの」
「あ・・ 見てたの? 声かけてくれたらよかったのに」
「お二人の恋路を邪魔したくないから黙ってたの」
「恋路だなんて・・ そんなんじゃないって言ってるのに」
 春香は広美の隣に腰掛けると、広美に寄り添うように自分の体を広美にくっつけてきて、広美の腕に自分の腕を絡めようとした。
「ダメ。春香ちゃん離れて!」
 広美は春香を引き離すと立ち上がった。
「キャッ」
 寄り掛かるものが無くなった春香は、バランスを崩して、ベンチの上にひっくり返るような恰好になった。
「広美ちゃん。何で急に立つのよ」
「春香ちゃんダメだよ。いつまでも私に甘えちゃ。もっと自分の事を考えてよ。そんなんじゃ、いつまで経っても自分の道を見つけられないよ」
「どうしたのよ。何をそんなに怒ってるの? 私、ずっと広美ちゃんに会えなくて寂しかったんだから。会った時くらい甘えたいよ」
「はるちゃ!! いつまでも子供みたいな事言わないで!」
「広美ちゃん・・・・  この頃冷たい・・・ 」
 春香は泣きそうな顔をしたが、広美はそれを無視するかのように言った。
「春香ちゃん。私これからレポートと課題を出しに行くから、もう行くよ」
 広美は踵を返して歩き出した。広美の態度にキレた春香は、持っていたショルダーバッグを振り上げて広美に叩きつけた。
 バシイッ!!!
「キャアッ!!」
 ショルダーバッグが広美の頭にまともにあたって、被っていた帽子が吹っ飛び、広美は両手で頭を抱えてその場に蹲った。
「痛ったあ・・・ 」
「バカーッ! 馬鹿バカ馬鹿!! 広美ちゃんなんか大ッ嫌い! もう絶交よ!!」
 春香は大声で怒鳴ると、踵を返して泣きながら広美の傍から走り去っていった。その背中を見つめる広美・・・・
「あーあ・・・ 久々にやっちゃったな・・・・ あの我侭なところが無ければ、いい子なんだけどな・・・・・」
 広美は一つため息を付くと、落ちた帽子を拾って被り直し、研究棟の方へ向かって歩き出した。
 
 それから間もなく後期試験の日程に突入した。広美は神尾の計らいで神尾の助手を辞めていたので、その分準備に専念出来たため、ある程度の余裕があった。また必修と選択を合わせた全教科の約半分が課題かレポートで、全て提出済みだったのも救いだった。一方の春香は、広美と違って科目の数が少なく、半分以上が一般教養課程だったので結構楽だった。そんな中で広美と春香が一緒に選択していた一般教養科目の試験があった。広美は試験を受ける教室に入り、一番前の席に座っている春香を見つけると、同じ列の春香から少し離れたところに座った。が、春香は突然プイッと立ち上がると、通路を通って一番後ろのほうの席へ移動してしまった。
「(あちゃー・・・ これは長期戦になりそうだな・・・)」

     *    *    *    *

 やがて後期試験が終わって、学生達は4月までの長い春休みに入っていたが、ゼミやサークル活動があったり、就職活動や再試験、補講などで大学に来ている者もいた。試験の成績は前期と後期の両方の試験の結果によって決定し、その成績が分かるのは新学期に入ってからなのだが、単位が取れなかった者に対してのみ、この春休み中に再試験や補講の通達が行われ、その情報は学内の掲示板で知る事が出来た。だから自分の成績や単位に不安のある者は、休み中でも大学に時々来て掲示板を眺めていた。
 最後の試験が終わった翌日、広美は朝起きて着替えると、部屋から出て春香がいる隣の建物へ向かった。春香はあれっきり全然自分に会おうとしないから、さすがの広美もヤキモキし出したのだ。ドアの前に立ってベルを押したが、何の応答も無い。窓から覗いてみると、カーテンが閉めきられていて室内は暗かった。
「春香ちゃんいないのかな・・・ こんなに朝早くから何処へ行ったんだろう」
 その時隣の部屋の人(男子学生)がゴミを出すために出てきて、広美と鉢合わせした。
「あ・・ おはようございます」
 その男子学生は無言で頭を下げると、広美に向かって言った。
「君は確かこの部屋の人の友達ですよね」
「はい」
「この部屋の人なら、一昨日の夜に大きな荷物持って、実家に帰るって言って出て行きましたよ」
「ええっ? (私に何も言わずに帰っちゃったのか・・ こりゃ相当キテるな) 分かりました」
 広美は頭を下げてから、自分の部屋へと戻っていった。広美は携帯を持つと、春香に電話をかけた。暫く呼び出しの音が聞こえたが、着信拒否になっていた。
「あーっ! 着信拒否になってる!」
 電話を切ると、今度は広美の携帯に着信が入った。
「お母さんからだ・・ はい広美です」
「・・・ ・・・」
「うん。昨日まで試験だったの。明後日帰る予定」
「・・・ ・・・」
「え? 春香ちゃん? 一昨日の夜そっちへ帰ったみたいなんだけど」
「・・・ ・・・」
「ええっ? そっちに帰ってない? (一体何処へ行ったんだろう) ・・・ うん・・ 何故一緒じゃないのかって? だって春香ちゃんとは学部が違うし、私は昨日まで試験だったし、それに試験の間、全然春香ちゃんに会えなかったのよ ・・・・・・ うん・・ うん分かった。私も心当たりを捜してみる。それじゃ」
 広美は電話を切ると、化粧をしてから両耳にイアリングを嵌め、机の上においてあるバッグを持ち、ジャケットを着込んで帽子を被って部屋の外へ出ると、階段を駆け下りて表通りに出た。
「はるちゃのやつ・・・ 一体何処へ行ったのよ・・・」


 1時間後・・・
 広美は大学構内の掲示板の前に立っていた。後期試験で合格点が取れず、単位を落とした者については、試験の始まる前に提出したレポートや、最初の試験の方だったらもう名前が出ているはずなので、広美は全ての掲示板を眺めた。
「私の名前は無い・・・ と。レポートと課題も大丈夫みたい。それにしても春香ちゃん一体何処へ行ったんだろう・・ 実家に帰ってないとしたら、何処にも行く所なんか無いはずなのに」
「あの・・ すみません」
 その時突然後ろから話しかけられて、広美は声がした方へ振り返った。するとそこには自分より一回り背が高い男子学生が立っていた。

後編02
後編03

「(お・・ 意外とイケメン・・) あ・・ ごめんなさい。邪魔でしたね」
「違うんです。あなた確か、綾瀬さんの友達の、相原さんですよね」
「え? はい・・ あ、あなた確か春香ちゃんと一緒にいた男の子・・ 」
「そうです。はじめまして。僕は法学部の一年で、丹原修平といいます」
「丹原君・・・  法学部・・・ 君一年生なの?」
「はい。学年は一つ下ですけど、一浪してるんで、相原さんたちと年は一緒です。それで・・ 」
「ちょっと待って。こんな所で話すのもなんだから、近くの喫茶店にでも行きましょうか」
「は、はい」

     *    *    *    *

 大学近くの喫茶店にて・・・
 広美と修平はテーブルを挟んで向かい合って座っていた。
「えっ? 春香ちゃん、君の所にいるの?」
「そうなんです。何も聞かずに、僕の所に泊めさせてくれって。一昨日の夜にいきなり転がり込んできたんです」
「(男の所へ転がり込むなんて、はるちゃも見かけによらず大胆なのね・・) それで、 君は一人暮らしなの?」
「はい。大学から歩いて20分くらいの所のマンションに住んでます。ここからでも見えますよ」
 そう言って修平はマンションのある方角を指差した。
「実は僕、相原さんや綾瀬さんと同じ高校だったんですよ」
「え? そうだったの? 全然分からなかった」
「分からなかったのも無理無いです。3年間クラスが違ったし、それに僕は野球部の部活で朝早くて夜が遅かったから。ただ、綾瀬さんには高校時代に一目惚れして、ずっと憧れていたんです。それで3年になって地区大会が終わって引退してから、一度綾瀬さんに告ッたんです」
「あら・・ そうだったの。それでどうなったの?」
「友達なら良いって言われて、断られました。それでそのまま高校を卒業して、別れ別れになっちゃって、彼女の事はもう忘れたつもりだったんです。でも一年浪人してこの城南大学に入って、ある日相原さんと一緒に構内を歩いている綾瀬さんを見つけたんです。まさかこの大学にいるなんて思わなくて・・・・ 」
「再び恋心が目覚めた・・・ ってところか・・・。ねえ君、正直に答えて。春香ちゃんの事好き?」
「は、はい! 好きです!!」
 修平は顔を真っ赤にしながら返事をした。
「(わ・・ この子意外と純情なんだな。これは是非とも、はるちゃとくっつけてあげたいな)」
 広美は微笑みながら一つため息を付き、修平に聞いた。
「二人の大学での出会いのきっかけを知りたいな・・・ 差し支えなかったら教えて」

 ----------------------------------------------
 
 修平は淡々と話し始めた。きっかけは修平が授業のために入った教室だった。その授業は一般教養課程の必修で、その教室で春香と再会したのである。前の授業が終わって学生達がゾロゾロと出てきて、修平は教室に入って席についた。その時2列ほど前の席の傍にいる春香を見つけた。春香は前の授業を受けていて、授業が終わっても教室を出なかった。それは無くした物を捜しているからだった。それで修平は春香に近づいて話しかけた。
「あの・・ どうかしたんですか?」
「シャープペン落としちゃったの。誕生日に貰った、私の大事な宝物なのよ」
 そう言いながら春香は振り向いた。
「あ・・ 綾瀬さん。綾瀬さんじゃないですか」
「あら。丹原君じゃないの。久しぶり。同じ大学だったんだ」
「うん。一浪して入ったんだ。同じ大学だったなんて、奇遇だね。探し物手伝いますよ」
それから数分後に、修平は自分たちがいる場所の、すぐ傍の椅子の下に落ちていたシャープペンを見つけた。
「あった! ありました。ありましたよ」
修平はシャープペンを拾うと、春香に渡した。
「よかったぁ・・・ 」

  --------------------------------

「僕・・ その時の綾瀬さんの笑顔がとっても素敵に見えて・・ 」

後編04

 広美はテーブルに頬杖を付いて微笑みながら黙って話を聞いていた。修平は話を続けた。

   --------------------------------

 その時ちょうど次の授業が始まるところで、教授が教室に入ってきたため、春香はお礼の言葉もそこそこに、慌てて教室から出て行った。が、その事がきっかけになり、修平と春香はデートとまではいかないまでも時々会って一緒に食事したり、町の中を一緒に歩いていたりした。が、その事を広美は春香から一言も聞いていなかった。つまり春香は、修平との付き合いを広美に内緒にしていたのである。でも広美は春香の事を悪く思っていなかった。広美は修平の話を聞いていて、これはひょっとしたら二人が上手くいくかも知れないと感じていたからだ。

「丹原君」
「はい」
「私を君のマンションへ連れて行って。春香ちゃんを連れて帰るから」
「分かりました。僕も帰省しなければならないから、これ以上綾瀬さんを部屋に置いておく事が出来ないんです」
「じゃ行きましょうか。お金は私が払うから」
「え? そんな・・ 女性に払わせるなんて」
「いいから。誘ったのは私なんだから」
 広美と修平は喫茶店を出ると、修平のマンションへと足を運んだ

     *    *    *    *

 修平のマンションは8階建てで、大学からも見えるくらいの距離にあった。一階に食堂とコンビニがあり、住居は2階から上で2Kタイプと1Kタイプがある。住人の約6割が城南大学の学生で、大抵の学生は一階の食堂を利用していたが、部屋で自炊する事も出来た。修平の部屋は3階で部屋割りは2K(洋6帖と洋4.5帖で、台所3帖)。家賃は月4万5千。
 修平はマンションに付くと、部屋の暗証番号のキーを押して、出入り口を開け、広美を促すとエレベーターに乗って、自分の部屋がある四階で降りると、広美に向かって言った。
「さっき綾瀬さんの携帯にかけたら、部屋にいるって言ってました。もっとも一度部屋を出たら、暗証番号を使わないと中には入れませんから、部屋にいるしかないんですけど」
 修平は自分の部屋の鍵を開けて扉を開けると、広美を促してから小さい声で言った。
「僕は外で待ってるから、ここは女同士で話し合ってください」
 広美が頷いて部屋に上がると、修平は広美に任せるために、気を使って再び外へ出た。春香は修平が帰ってきたと思って、部屋から玄関まで出てきたが、そこに立っていたのが広美だったので、ビックリして思わず大声を出した。
「広美ちゃん!」
「春香ちゃん。迎えに来たよ」
「広美ちゃん。どうしてここが分かったの?」
 広美は春香に向かって歩き、春香は後退りして、後ろの壁にぶつかった。
「広美ちゃん嫌だ。来ないでよ。絶交したんだから! 来ないでってば!」
 広美は返事をせずに素早く春香のすぐ前まで来ると、右手で壁ドンしてから続いて左手も壁ドンし、春香のすぐ傍まで自分の顔を持っていった。広美のすぐ前には春香の顔がある。春香は蛇に睨まれた蛙のように、その場で固まってしまった。
「丹原君が教えてくれたのよ。春香ちゃん。お父さんとお母さんが心配してるから、帰ろうよ」
 春香は小さな声でボソッと言った。
「広美ちゃんは・・ 広美ちゃんは心配してくれていないの?」
 広美はムッとしたが、ゆっくりとした口調で言った。
「心配してるよ。だからここまで来たんじゃないの。冷たくした事は謝るから、一緒に帰ろうよ。春香ちゃんがいつまでもここにいたら、丹原君が帰省出来ないじゃないの」
 春香は無言で首を縦に振った。広美を見つめる目は今にも泣き出しそうなくらいに潤んでいる。
「私、広美ちゃんが遠くへ行っちゃうみたいで寂しかった・・・ 」
 春香の言葉を聞いて広美は何を思ったのか、そのまま春香を抱きしめた。
「キャッ・・・ 」
 春香の鼓動が広美の胸に伝わってくる・・・・
「これでも遠いの? 私、春香ちゃんのすぐ傍にいるんだよ」
 春香は両手で広美を抱きしめると泣き出し、広美は子供をあやすように春香の頭を撫でた。
「春香ちゃんゴメンね。私、自分の将来を考えるのに精一杯で、春香ちゃんの気持ちを考えられなかったの。でも、私はいつまでも春香ちゃんの傍にはいられないんだよ。社会へ出たら嫌でもお互い別々の道へ進まなきゃならないんだよ。その事は分かってくれるよね」
「うん・・ うん・・ 私こそ・・・ 私こそ広美ちゃんの事ぶったりしてごめんなさい・・・ 我侭ばかり言ってごめんなさい」
 春香は広美に抱きついたまま泣き続け、広美はその間春香を抱きしめていた。
「広美ちゃん・・ 私たち親友同士だよね」
「勿論だよ。ほら。もう泣かないで。一緒に帰ろう。私たちがここにいる間、丹原君が外で待ってるんだから。早く彼を中へ入れてあげようよ」
 広美は春香を引き離すと、携帯を出して外にいる修平に電話した。
「もしもし丹原君? もう入ってきていいよ」
 暫くして修平が扉を開けて部屋に入ってきた。春香は修平の傍へ行くと修平に言った。
「丹原君。迷惑かけてごめんね。私帰るから」
「ああ。いいですからそんな事。いつでも遊びに来ていいですよ」
「丹原君。お邪魔しました。新学期になったらまた会おうね」
「いや・・ 帰省したら向こうで会えるかも」
「あ・・・ そうだね。考えてみれば同郷なんだ。それじゃ」
 広美は春香を連れて、修平のマンションから出た。

     *    *    *    *

 広美と春香は翌日に東京から渚島に帰省した。それから一週間が過ぎた・・・
 広美は朝ご飯を食べ終えると、自分の部屋へ戻ってベッドにうつ伏せになって携帯電話を開いた。
「あ。春香ちゃんからメールが来てる」
『広美ちゃんおっはよー! 春香でぇす。今日は修平君とデートだから、電話しても出られないんでよろしくね』
 文面を見て広美は唖然とした。そして寝返りをうって、仰向けになって携帯の画面を眺めながらぼやいた。
「もーっ・・・ 何だよ。はるちゃのやつ・・ 結局丹原君とくっついちゃったのか・・・」
 そう言いながら広美は半分寂しい気持ちになったが、半分はホッとしていた。自分が思っていた通り、春香が修平と上手くいっているからだった。
「さてと・・・ 」
 広美はベッドから降りると、外出用の服に着替えて下へ降りた。そこで母親と鉢合わせした。
「あら。広美出かけるの?」
「うん。ちょっと本土の図書館とネットカフェに行ってくる。あと、役所へ行ってパスポートの申請もしてくるから」
「あくまり遅くならないようにね」
「はぁい。行ってきまーす」


 二時間後・・・・
 広美は市内のネットカフェでパソコンのインターネットを眺めていた。
「えーと・・  ドイツへ行くための方法・・・  行き先がトリステルとシュタイニバッハだから、最寄りの空港は・・・ と」
 広美はホームページを手当たり次第に探り、必要なものをプリントアウトした。
「よし。次はパスポートだな」
 広美はネットカフェから出ると、パスポートを申請するために合同庁舎へ向かった。庁舎について中へ入ろうとしたところで、後ろから呼び止められた。
「広美ちゃん」
 突然呼ばれて、広美は声がした方を向いた。そこには春香と修平がいた。
「あら。春香ちゃんに丹原君」
「やっぱり広美ちゃんだ」

後編05

後編06

 春香と修平が広美の元に駆け寄ってきて、春香は照れ臭そうに微笑んだ。
「広美ちゃん。もしかしてパスポートの申請?」
「うん」
「じゃ私も一緒だ。広美ちゃん。一緒にやろうよ」
 広美と春香、そして修平は庁舎の建物の中へ入っていった。

 それから・・・ 
 パスポートの申請手続きを終えた広美と春香は、修平とともに市内のハンバーガーショップの中にいた。
「へえ・・  二人ともドイツへ行くんだ」
「うん。日どりは大体決まったのよ。後はこれから渡航の準備ってとこかな」
「修平君。何か欲しい物があったら、買ってきてあげるよ」
「うーん・・ そうだな・・ じゃドイツのワインをお願いするかな」
「ドイツのワイン・・・ と」
 春香が手帳にサラサラと書き出した。
「他には無いの?」
 修平は少し考え込んだところで、春香に言った。
「春香さんが無事に帰ってくること。それが一番のお土産かな」
「ほおーっ」
 広美が感心したような声を出し、春香は顔を真っ赤にした。そこで広美は立ち上がると、春香に向かって言った。
「春香ちゃん。私、用事があるから先に行くね。二人ともゆっくり楽しんできてね」
「え? 広美ちゃんもう行っちゃうの?」
「デートの邪魔しちゃ二人に悪いから。それと、これ・・ ドイツ関係の資料。春香ちゃんの分もプリントアウトしておいたから。それじゃ」
 広美は春香にデータを渡すと、春香と修平に背を向けて店の外へ出た。

     *    *    *    *

 翌日の朝・・・
「広美。春香ちゃんが来たわよ」
 ベッドに横になっていた広美は、母親に呼ばれて飛び起きると、下へ降りた。玄関には春香が立っていた。
「広美ちゃんおはよう」
「おはよう春香ちゃん」
「広美ちゃん。ちょっと外で話がしたいんでけど」
「分かった。いいよ」
 広美は奥の部屋の方へ向けて大きな声で言った。
「お母さん。出かけてくるね」
「行ってらっしゃい」

 広美と春香は例の場所・・・ つまり、かつて二人がタイムスリップした分かれ道の傍にいた。ここは海を見渡せる高台になっていて、二人は道路わきの柵に寄りかかって海を見つめていた。春香から先に口を切った。

後編07

「広美ちゃん。昨日の事・・・」
「あ・・ 春香ちゃんゴメンね。あれでも気を使ったつもりだったのよ」
「広美ちゃん違うの」
「違うって?」
「私が広美ちゃんだったら、きっと同じこと言ったと思う」
「うん・・ はるちゃもいい人とめぐりあえたね。私が言うのもなんだけど、修平君は春香ちゃんにはピッタリの人だよ」
「ありがとう」
「でも、あんまり甘えすぎて、修平君を困らせちゃダメだよ」
「もーっ・・ 広美ちゃん」
「ところで春香ちゃんは将来何がしたいの? 小学校の頃は学校の先生になりたいって言ってたけど、今はどうなの?」
「今も変わらないよ。卒業したらこの渚島に帰ってきて、小学校の先生がしたい」
「そうか・・ しっかり夢持ってるんじゃないの」
「広美ちゃんはどうするの? 何だか大学に残るような雰囲気だけど」
「うん。大学院まで進むよ。そのあとは学者を目指すわ」
「学者か・・・ そっか・・ やっぱり将来はお互い離れ離れになっちゃうんだね。でも、仕方が無いんだよね」
 春香は自分自身で納得したように言った。
「春香ちゃん」
「何? 広美ちゃん」
 広美は両手で春香の手を握りしめて言った。春香は顔を少し赤くした。
「たとえ遠く離れてしまっても、私たち二人は親友同士。それを忘れなければ、いつだって私たちは会う事が出来るし、いつになったって私たち二人の友情は変わらないよ」
「うん。そうだね」
 春香は目を潤ませた。
「ねえ、広美ちゃん」
「何?」
「広美ちゃんを抱きしめたい・・・ もう我侭言わないから、抱きしめさせて」
 広美は返事をしないで、自分の方から春香を抱きしめた。
「私の返事はこれよ。私、春香ちゃんが好きだよ」
「広美ちゃん・・・ 私も広美ちゃんが大好き」
 春香は広美を抱きしめると泣き出した。そして顔をくしゃくしゃにしながら、自分の唇を広美に近づけた。広美はそれを拒まず、二人の唇が重なった。そして春香は涙を拭うと、吹っ切れたように広美に言った。
「これで広美ちゃんが二番目になっちゃった」
「何? その二番目って」
「好きな順番・・ かな・・ つまり広美ちゃんが二番目に好きで、一番好きなのが修平君」
「あーあ・・ のろけちゃって・・ (コノヤロー)」
 昇ってきた太陽の光が広美と春香を照らし、春香が思い出したように言った。
「もうこの場所・・・ 何回も通ったり立ったりしてるんだよね」
「そうだね・・ 私たちが中世のヨーロッパにタイムスリップした場所。もしかしたら、もうすぐその謎が解けるかもしれない。そう・・ シュタイニバッハへ行けば・・・ 」
 広美は海を見つめながら言った。春香も隣で広美と一緒に海を見つめていた。

     *    *    *    *

 3月になり、いよいよ広美と春香がドイツへ行く時が来た。渡航の方法を調べ、パスポートも取って、旅行の日程も決まったので、広美は神尾に連絡を入れ、その後フィーナから広美宛に、現地でのホテルの予約の知らせや、現地での交通手段などが書かれたエアメールが来た。
 ある日の朝、広美は渚島のフェリー埠頭で春香と一緒に立っていた。
「それじゃお父さん。お母さん。行ってきます」
「気をつけてね」
「体に気をつけるんだぞ」
 広美と春香はそれぞれの両親に見送られて、フェリーに乗って渚島をあとにした。修平は見送りには来なかった。というのは、修平はアルバイトがあるので、広美と春香が渚島を離れる一週間くらい前に東京に戻っていたからだ。広美と春香はまず東京へ戻ってそれぞれのアパートへ行き、それから空港へ行く事になっていた。


 その日の夕方に東京に到着し、自分たちのアパートまでたどり着くと、先に東京に戻っていた修平が出迎えてくれた。
「修平君。逢いたかったぁ」
 春香は荷物をその場に置くと、修平に飛びついて抱きしめた。
「はるちゃ。そんな所に荷物放り出しちゃダメだよ。気持ちは分かるけど、まず部屋に入って整理しなきゃ」
「あ・・ ゴメンゴメン」
 春香は修平から離れると、荷物を持って自分の部屋に入っていった。

 翌日・・・
 ドイツ行きを明日に控えていた広美と春香は、修平と一緒に大学の近くにあるファミレスの中でテーブルを囲んで座っていた。大学の近くだったのは、広美が大学構内の掲示板を確認しに行くためと、神尾に挨拶に行くためだった。そのため広美は春香たちと別れて、一人で大学へ行き、掲示板を確認してから、神尾の研究室へ行ったのだが、神尾は留守だったので、そのまま大学から出てきて、春香たちとの待ち合わせの場所へ行き、合流してから近くのファミレスへ行ったのである。
「広美ちゃん。単位大丈夫だったの?」
「うん。私の名前は無かったから。これで全部単位取れた」
「良かったね」
 そこで修平が話しかけてきた。
「いよいよ明日ドイツへ行くんですね」
「うん。朝、成田空港から出発するの」

     *    *    *    *

 そしてその明日が来て、今日は出発の日・・・
 広美と春香は空港のロビーにいた。修平は勿論見送りに来ていたし、神尾と美樹子も見送りに来ていた。しかし、いつもの事ながら、神尾のスタイルは周囲の注目の的となっていた。

後編08

後編09

「二人とも気をつけてね」
「相原君。綾瀬君。向こうではフィーナ君が待っているから安心したまえ。到着時間も連絡済みだし、ホテルの予約も彼女が手配してくれている。無事を祈っておるぞ」
「博士。色々とありがとうございます」
 広美は携帯を取り出して時計を見た。
「(まだちょっと時間あるな・・・ ) 修平君」
「は、はい」
 広美は修平の腕をつかんでから、春香に言った。
「春香ちゃん。ちょっと修平君を借りるね」
「え?」
「ちょっと私と一緒に来て」
 広美は修平を促すと、みんなから離れた場所まで修平を連れてきて、真顔で修平を見つめて言った。
「あの・・ 相原さん。何ですか? そんな真剣な顔して・・・ 」
「修平君。春香ちゃんの事、これからもよろしくお願いします。あの子はとっても良い子だし、私のかけがえの無い親友なの。だからこれからも大事にしてあげてください。ずっと傍にいてあげてください。どうかよろしくお願いします」
 そう言って広美は修平に向かって頭を下げた。
「わ、分かりました。春香ちゃんの事を絶対に幸せにします・・ って・・ これってまるで・・・ 」
 修平は何か言おうとしたが、広美がそれを制して言った。
「分かってくれればそれでいいの。さ、行こう」
 広美は小走りにみんなのところへ戻り、修平も小走りにあとを追ってきた。春香が広美に聞いた。
「ねえ。修平君と何話してきたの?」
「うん・・ ちょっとね。春香ちゃんにとって悪いことじゃないから大丈夫だよ」
「えー? 広美ちゃん。隠し事はやめてよ」
「(あとでゆっくり話してあげる)」
 広美は春香に小声で囁くように言った。
「それじゃ行ってきます!」
 広美と春香は踵を返すと、パスポートを持って空港のゲートを越えた。二人は搭乗口から飛行機に乗り込み、やがて二人を乗せた飛行機が滑走路から離陸して、空へと飛び立った。行き先はドイツのミュンヘン空港。広美と春香。二人を待ち構えているものは一体何なのか・・・・・

     *    *    *    *

 飛行機の中で、春香は気になっていた事を広美に聞いた。
「広美ちゃん。さっきの話、一体何なの? 修平君と何話してたの?」
「たいした事じゃないよ」
「お願い教えて。広美ちゃん。私たちとの間に隠し事は無しだよ」
「春香ちゃんの事を大事にしてあげてって言ったの。そしてこれからもずっと春香ちゃんの傍にいてあげてって言ったのよ」
「えーっ? やだ。恥ずかしい。何でそんな事いったのよ」
「春香ちゃんは修平君の事好き?」
「勿論」
「だったら良いじゃないの。私・・ 将来二人が結婚する時の姿を見たいな・・・ 」
「・・・・」
 春香は顔を真っ赤にして、ソッポを向いた。
「ゴメンね春香ちゃん。余計な事しちゃったかな・・・ 」
 春香は小声でボソッと言った。
「ううん・・ 私、嬉しいよ・・・ 広美ちゃんありがとう」

      *    *    *    *

 二人を乗せた飛行機は、ドイツのミュンヘン空港に着陸し、広美と春香は出入国ゲートを出た。そこにはフィーナが立っていて、二人に声をかけた。
「広美さん。春香さん。こっちです」
「フィーナさん。久しぶりです」
「こんにちは」

後編10

後編11

「二人とも疲れたでしょ。予約しておいたホテルに案内するから、一緒に来てください」
「ありがとうございます」
 フィーナはミュンヘン市内のホテルの一つを予約していて、広美と春香をそのホテルに案内し、ロビーまで一緒に来た。
「明日の朝9時に迎えにきます。ゆっくり休んでください」
「ありがとう」
 フィーナが去り、広美と春香はチェックインして、泊まる部屋へと向かっていった。


 翌朝・・・
 広美と春香は朝食を済ませると、一階のロビーでチェックアウトをした。9時になって時間とほぼピッタリにフィーナがやってきた。
「おはようございます」
「フィーナさんおはようございます」
「今日はトリステルまで行きます。今から汽車に乗ると、到着は3時頃になります。広美さん。春香さん。それじゃ行きましょう」
 広美と春香はフィーナについていった。会話等は全てガイド役のフィーナがしてくれていた。ドイツ語の分からない春香はともかく、広美はドイツ語を話したり聞く事が出来たので、フィーナの会話の内容がある程度分かっていたが、フィーナがすべてやってくれていたので、広美は何もしなくてもよかった。
「(フィーナさんがみんなやってくれている・・・ 場慣れしてるっていうか、すごい・・ でも、甘えちゃいけない。私が出来る事は、わたしがやらなくちゃ・・・ )」
 広美はフィーナに感心していたが、神尾博士の言葉を思い出し、彼女に甘えてはいけないと思っていた。

     *    *    *    *

 ミュンヘンを出発した列車は、ドイツ南部の景色を車窓から映し出しながら走り続けていた。春香はその風景を見ながら、写真を撮ったりしていて、広美はフィーナと時々会話をしていた。
 約6時間かけて列車はトリステルに到着した。広美と春香は列車から降りると、フィーナの案内で駅の施設の外へ出た。移動が結構頻繁だったため、二人とも大荷物は持っておらず、背中に背負ったナップザックと、片手に持ったボストンバッグだけだった。広美と春香はトリステルのバスターミナルで、乗り場の案内板を眺めていて、そこへフィーナがやってきた。フィーナが話す前に、広美のほうから口を切った。
「フィーナさん。シュタイニバッハ行きのバスは、今日はもう無いんですね」
「あ・・ はい。そうです。あそこへは一日3往復しかバスが出てないんです。観光シーズンだったらもっと出てるんですけど、今は残念ながらシーズンオフなんで」
 フィーナは時計を眺めた。既に4時近くなっている。空は曇っていて薄暗く、今にも雪か雨が降ってきそうな雰囲気だった。
「広美さん。明日はまず、私の大学に案内します。それからトリステルの記念館へ行って、時間次第でシュタイニバッハまで行きますけど、それでいいでしょうか」
「はい。それでお願いします。ただ・・・」
「何ですか?」
「記念館とシュタイニバッハは明後日でもいいですよ。私たち、日程は余裕を持って設定していますから、明日トリステル大学へ行って、明後日にトリステルの記念館と、シュタイニバッハの資料館へ行くというのはどうですか?」
「分かりました。それで良いですよ。それじゃ今日はホテルの方へ案内します」
 そう言ってフィーナは駐車場の方へと二人を案内した。フィーナは並んでいる車の中にある白いポルシェを指差し、広美と春香を促してからドアのロックを開放した。
「さ。二人とも乗ってください」
 フィーナは二人が乗ったのを確認すると、車を発進させた。
「この車はフィーナさんのですか?」
「はい。こっちの方は車が無いと不便だから買ったんです。といっても、お金はお父さんが半分出してくれたんですけど」
 フィーナが運転するポルシェは、トリステルの市街地を出て、南ドイツの牧草地の中を走っていた。3月という季節がら所々に雪が残っていて、上空の曇り空からはチラチラと雪が舞い降りてきていた。30分くらい経過して、フィーナは車を道路から横道へ入れ、広場に車を止めた。
「二人とも。着きましたよ」
 広美と春香の目の前には、コテージかペンションのような造りをした綺麗な建物があった。春香が『わあ』という歓声を上げ、フィーナがクラクションを鳴らすと、暫くして建物の中からコテージの支配人夫婦と二人の子供が出てきた。主人が一人で車に近づいてきて、車の傍まで来た。広美と春香が車から降りると、フィーナは二人に言った。
「ここが今日泊まる宿です。本当なら今の季節はシーズンオフで、1月から4月までは閉めてるんですけど、広美さんと春香さんのために、特別に開けてもらったんです」
「え? 私たちのためにですか? 何か申し訳ないな・・・」
「良いんですよ。実はここは私の家でもあるんですから」
「ええっ? ここはフィーナさんの家なんですか?」
 春香は驚いたような表情で、周りを見回した。
「そうなんです。私の両親はこのコテージを経営しているんです。二人ともちょっと待っててね」
 フィーナは父親のゲオルグに何か話しかけ、その間に他のみんなが車の傍まで来た。
「広美さん、春香さん。紹介しますね。私のお父さんのゲオルグと、お母さんのハンナ。そして妹のレラと弟のフランツです」

後編12

 広美はドイツ語で話しかけた。
「Guten tag. Ich freue mich, Sie kennen zu lernen. (こんにちは。はじめまして。お会いできてうれしいです)」
 フィーナはビックリした顔で広美に言った。
「広美さん。ドイツ語、喋れるんですね」
「はい。少しですけど」
 ゲオルグが広美の前に来て、流暢なドイツ語で話しかけてきた。
「Sehr erfreut. (こちらこそ) Wie heβien Sie? (あなたのお名前は?)
「Mein Name ist Hiromi Aihara. Das ist Frau Haruka Ayase. (私の名前は相原広美です。こちらの人は綾瀬春香です)」
 ゲオルグは広美と春香を順番に軽く抱きしめると、フィーナと一緒に二人の荷物を持って、玄関へと促し、広美と春香は建物の中へと入っていった。

     *    *    *    *

 フィーナの家族は両親とフィーナ、そしてフィーナの妹と弟の5人である。両親はコテージを経営する傍ら、周囲に農場も持っている。妹と弟は学生で、二人ともフィーナと10歳以上年が離れている。フィーナはゲオルグと前妻との間に生まれた娘で、本当の母親はフィーナが9歳の時に病気で死亡していて、フィーナが11歳のときにゲオルグはハンナと再婚し、二人の子供(レラとフランツ)が生まれた。つまりフィーナの二人の妹弟は異母妹弟という事になる。
 フィーナが超能力(念力のようなもの)を持っていたのは、母親が死亡して間もない頃から、ゲオルグが再婚する頃までの時期 (前編を参照) で、広美や春香同様、タイムスリップした時期と戻ってきた時期とが同時刻だったために、タイムスリップした期間の約半年は、記憶の凝縮現象によって圧縮され、戻ってきたときはタイムスリップしていた時の事を覚えていなかった。またその時持っていた超能力も失われていた。フラッシュバックしたのは大学生になって間もない頃で、たまたまトリステル大学に客員教授として招かれていた神尾と、トリステル大学のベイダー・ヘルバルト教授によって、その原因が解明され、神尾とベイダーの適切な治療と精神療法によって全快に至った。フィーナはその縁で日本の城南大学へ留学し、神尾の研究室に入って、神尾の助手になったのである。そして留学の期間が終わり、母校であるトリステル大学に戻ってきて、現在は残った就学年数を全うし、必要な単位さえ取得できれば卒業出来るという状況だった。

      *    *    *    *

後編13

後編14

 その日の夜、夕食を終えた広美と春香は、自分たちの部屋でフィーナと一緒に雑談していた。
「ふうん・・ フィーナさんの家はプロシャの貴族の子孫だったんですか?」
「はい。とはいっても、ずっと昔の話なんですけど」
「そういえば、シュタインベルクっていうと、どことなく高貴なイメージね」
 春香が感心したように言った。
「でも、家族でこういうコテージを経営しているって、アットホームで良いですね」
「ありがとう春香さん」
「フィーナさん」
「何? 広美さん」
「さっき話を聞いてたんだけど、フィーナさんはこのコテージや農場を継がないんですか?」
「難しい質問ね・・・ そうね・・・ 私の場合、お父さんが、跡継ぎはレラかフランツに任せるから、私には好きな事をやれって言ってるの。お母さんは本当のお母さんじゃなくて、下の二人の兄妹も本当の姉妹じゃないんだけど、私にとっては大事な家族の一員なの。お父さんが再婚したいって言ったときも私は反対しなかったし・・・ みんな大切な家族なんです」
「そういえば、神尾博士が、フィーナさんが小さい頃に超能力があったって言ってたけど」
 フィーナは顔を曇らせた。
「あ・・ ごめんなさい。フィーナさんにとっては、思い出したくない事でしたね」
「いいのよ広美さん。私が念力みたいなものを持っていたことは、お父さんも知っていました。それでお父さんは、私の変な力の原因が、お母さんが死んでしまったせいだと思い込んでしまって、一時期すごく落ち込んでしまってたんです。だからお父さんが、今の新しいお母さんとめぐり合った時、私はお父さんのために、再婚に賛成したんです」
 フィーナの話を聞いていて、春香は涙ぐんでいた。
「春香さん。そんな悲しい顔しないでください」
「あ・・ ごめんなさい・・ つい・・ 」
 コンコン・・・
 ドアをノックする音が聞こえて、広美が立ち上がってドアを開けた。廊下には母親のハンナが立っていた。
「フィーナ、二人トモ疲レテイルンダカラ、ソロソロ休マセテアゲナサイ」
「ハイ。オ母サン」
 フィーナは立ち上がると、広美と春香の方を向いた。
「二人とも遅くまで付き合わせてゴメンなさい。明日は朝食後9時にここを出発します。二人ともおやすみなさい」
「ありがとう。フィーナさんもお休みなさい」
 フィーナが部屋を出て行って、広美と春香は寝巻きに着替えて布団にもぐりこんだ。

「ねえ・・・ 広美ちゃん」
「何、春香ちゃん」
「フィーナさんの事どう思う?」
「どう思うって・・・  いい人じゃないの」
「そうじゃなくて、何か・・・ 」
「何かって・・・ どうかしたの?」
「何か・・・ 謎めいた何かを持っているって言うか、重大な秘密を持っているとか、隠し事をしているような、そんな感じがするのよ」
「何それ・・ 春香ちゃん考えすぎだよ」
「・・・・ 」
「春香ちゃん。電気消すよ」
 広美が部屋の電気を消して、部屋が真っ暗になった。

     *    *    *    *

「ソレジャ、オ父サン。オ母サン。行ッテキマス」
「フィーナ。気ヲツケテ行ッテラッシャイ」
「広美チャント春香チャンモ気ヲツケテ」。
「Danke schön(ありがとうございます)」
「どうもありがとう」
 翌朝、広美と春香はコテージの前の広場にいた。今日はフィーナの母校、トリステル大学へ行く日である。家族全員が出てきて見送る中、フィーナは自分の車に乗り込むと、広美と春香を促し、二人が乗ったのを確認すると車を発進させた。
フィーナの車はトリステルの町の方へと向かっていて、途中から横道に入った。暫くすると、小高い丘の上や、丘の間に建つ複数の建物が見えてきた。
「あれが私の母校のトリステル大学です」
 車は大学構内に入ると、駐車場の中に乗り入れて止まった。広美と春香は車から降りると、両手を上に上げて深呼吸した。
「それにしても随分広いのね」
「城南大学の倍近くありそうだわ」
 そこへフィーナがやってきた。
「このあたりは自然に囲まれているんで、余計に広く見えるんです。それに今は大学はバカンスに入っていますから、学生も殆どいないし・・・  実際には城南大学の規模と殆ど変わりは無いですよ」
 広美と春香はフィーナと一緒に構内を歩きながら会話していた。
「元々はこの大学は修道院だったの。元の修道院が老朽化したために、この場所に移転してきて、そこから大学になった経緯があるんです。元の修道院については、広美さんもご存知かと思いますけど」
「シュタイニバッハの近くにあった修道院ですね」
「はい。明日行く事になっている、トリステル記念館です」
 広美たち三人が構内を歩いていると、向かい側から一人の初老の男がやってきて、3人の前で止まった。その容姿は、黒装束に長い髪、長い顎鬚を生やしていて、城南大学の名物教授である神尾に勝るとも劣らぬ、いかにも奇人変人という出で立ちだった。

後編15

「オオ。フィーナ君デハナイデスカ」
「ベイダー博士。コンニチハ」
 あまりの奇抜な姿に、広美と春香はフィーナの後ろに隠れるように下がった。フィーナは噴き出して笑いながら広美と春香の方を向いて言った。
「二人とも大丈夫ですよ。この人はこのトリステル大学のベイダー・ヘルバルト博士です。学生達の間では、ドクトルB(ベー)とか、プロフェッサー・Bと呼ばれているんです。ちょっと変わってますけど、二人をとって食ったりはしませんから大丈夫ですよ」
 ベイダーはフィーナの後ろにいる二人を眺めながら、フィーナに聞いた。
「フィーナ君。後ロニイル二人ノ女ノ子達ハ、君ノ友人カネ?」
「ハイ。ワタシノ友人デス」
 広美は前に出てくると、ドイツ語で喋った。
「Guten tag. Ich freue mich, Sie kennen zu lernen.  Mein Name ist Hiromi Aihara.  Das ist Frau Haruka Ayase. (こんにちは。はじめまして。私の名前は相原広美です。こちらの人は綾瀬春香です)」
「おお・・ わんだふぉー!! べいりーぐーっど。素ん晴らしいぃ発音なのだネエ」
 ベイダーが日本語で応えたので、広美はビックリした顔でベイダーを見た。その発音と喋り方は奇抜だったが、ベイダーは話を続けた。
「ワダシ日本語スゴシ分がるだヨ。ワダシ日本の城南大学のドクトゥール神尾の知り合いで、オドモダチなのね。イッショに超自然現象や超常現象の研究さしてるだよ」
「そうだったんですか。私は神尾博士の助手をしていたんです」
「オーッ。すると君がドクトゥール神尾さ言っていたヒロミ・アイハラだったのですかい。お会いできテ大変嬉しいだよ」
 そう言うや、ベイダーは広美を軽く抱きしめた。
「キャッ」
 ベイダーはさらに広美の両方の二の腕をつかんで言った。
「神尾が言っていたが、君にはガクシャとしての資質さありますネ。是非とも、このトリステルに留学生として、トッテモお招きしたいのダベネ」
「あ・・ ありがとうございます」
 ベイダーはフィーナの方を向いて言った。
「ソレデハ、ワタクシハヤボナゴ用ガアルノデ、コレデ失礼スルベネ」
ベイダーはそう言うと、そそくさと3人の元から去っていった。姿が見えなくなって、今まで黙っていた春香が、ため息をつきながらようやく口を開いた。
「広美ちゃん。死神博士の知り合いの人って、奇人変人みたいな人たちばかりなのね」
「うん・・・ 神尾博士もそうだったけど、まるで秘密結社の幹部みたい」
 フィーナは広美と春香の会話をクスクス笑いながら聞いていた。
「広美さん。実は私は今、あの博士の下で助手をしてるんですよ」
広美はフィーナを見た。
「そうだったんですか。何か失礼なこと言ってしまいましたね」
「別に良いんですよ。さ、行きましょうか」
 フィーナに促され、広美と春香は構内を再び歩き始めた。

      *    *    *    *

 その日の夜もフィーナの家であるコテージに泊まることになっていた。そして夕食のあとは、広美と春香は昨日同様二人の部屋でフィーナを交えて雑談していた。
「二人とも申し訳ないんですけど、明日からはここに泊まれなくなっちゃうんで、別の場所へ移動しなければなりません。広美さん。それで・・ 私はシュタイニバッハに大学の後輩がいて、その人に事情を話したら、そこの家の方があなたたちを泊めてくれる事になりましたから、宿の方は心配要りません」
「そうなんですか。フィーナさん。私たちのために色々ありがとうございます」
「私たちのために二日も宿を開けていただいて、何てお礼を言ったらいいのか」
「そんな。お礼なんていいですから」

       *    *    *    *

 翌朝
「ソレデハオ二人トモ。スバラシイ旅ヲ続ケテクダサイ」
「行ッテラッシャイ」
「Danke schön. Sehen wir uns wieder. (ありがとうございます。またお会いしましょう)」
 ゲオルグは広美と春香を順番に軽く抱きしめた。
「ソレジャオ父サン。オ母サン。二人ヲ案内スルンデ出カケテキマス」
「気ヲツケテネ。フィーナ」
 フィーナは広美と春香を車に乗せると、車を発進させた。

 車は草原地帯や森林地帯の中を走り、やがて山道になった。
「この道はシーズン中ならバスがたくさん通ってるんですけど、今は1日3往復しか運行していないんです。だから車がないととっても不便なんですよ」
 フィーナは運転しながら広美と春香に話していた。
「この山道を登って、峠を越えればすばらしい景色が見えますよ」
 フィーナの運転するポルシェは峠を越え、その先には広々とした丘陵地帯と、遠めに見えるアルプスの白い山並みが二人の目に映った。
「わあ・・ 」
 春香が歓声を上げる。
 やがて丘陵地帯の中に、箱庭の中にあるミニチュアのセットのような建物が複数見えてきて、フィーナは車のスピードを落とし、広美と春香に言った。
「あれが元のトリステル修道院。現在のトリステル記念館です。記念館の向こうに見える山を越えると、もうお隣のスイスなんですよ」
 フィーナは再びスピードを上げ、トリステル記念館へと車を走らせた。

      *    *    *    *

 フィーナは記念館の駐車場に車を乗り入れた。アルプスが近いためか、付近一帯は雪化粧で、駐車場内も所々に雪が積もっていたので、フィーナは雪が無い場所を選んで車を停めた。今はシーズンオフのためか、他に止まっている車は皆無で、吹き抜けていく冷たい風の音や、屋根から時々落ちてくる雪の音がしっかりと聞こえている。広美と春香は車から降りると、両手を伸ばして深呼吸した。
「わあ・・ 空気が美味しい・・・ 」
「風が冷たくて寒いけど、晴れているからポカポカしてるね」
 記念館の電光掲示板には、-5℃の表示が出ていたが、晴れているので暖かく感じられた。
「広美さん。春香さん。申し訳ないんだけど、今はシーズンオフなので、施設はみんな閉鎖されていて、館内には入れないんです」
「そうなの・・・ 」
「残念・・・ 」
「じゃ周りだけでも見て歩きましょうか」
 そう言うと広美は建物がある方へ向かって歩き出した。
「ちょ・・ ちょっと広美ちゃん待ってよ」
 春香が小走りに駆け出して広美を追い、フィーナもそのあとをついていった。

後編16

 それから約1時間が経過した。
 一通り施設の中を歩いてきた広美と春香。そしてフィーナは、施設の中央広場にいた。
「中に入れないのは残念だったけど、建物は結構綺麗なのね」
「二人ともごめんなさいね。ここだってシーズン中は結構賑わってるんです」
「フィーナさん。それで・・・ シュタイニバッハの資料館も、今は閉鎖されてるんですか?」
「いえ・・ シュタイニバッハの資料館は大丈夫ですよ。あそこは街に近いし、今は資料館のすぐ近くまで住宅地になって開けています。それに資料館には街から派遣された管理人さんが交代で常駐していますんで、年中無休で開放されてます」
「ここからはどれくらいなの?」
「資料館はここから車で大体20分ってところかしら。徒歩ならば昔から通っている近道があるんで正味1時間くらいですけど、今は所々に積雪があるので、通行止めになってます」
「フィーナさんはここからその道をシュタイニバッハまで歩いたんですね」
「はい・・ タイムスリップした中世の時代に、ここから歩きました。実際には500年位前なんだろうけど、私にとっては10年位前のことです」
「私と春香ちゃんがシュタイニバッハの牢獄に繋がれていたのも、同じなのね・・」
 フィーナは時計を見た。
「もうすぐ昼ですね」
「あ・・ もうお昼なんだ。そういえばお腹が空いてきたな」
「それじゃ一旦山を降りてシュタイニバッハの街まで行きましょう」
 フィーナは駐車場へ向かって歩き出し、広美と春香はフィーナの後をついていった。フィーナの後ろ姿を見ながら、広美はフィーナに対して何かを感じた。
「(春香ちゃんが言っていたように、フィーナさんは何かを隠しているような気がする。今まで意識してなかったけど、今日になってから今までの仕草といい、喋り方といい、なんだかおかしいわ・・・ そう・・ 何か言いたそうで、言えないのか言わないのかってところかしら・・・)」
 今日のフィーナの様子を見て、広美は一昨日の夜に春香が言っていた事を薄々と思い出していた。まだ確信は持てていなかったものの、広美はフィーナが自分たちの事で何か隠し事をしているように感じていたのだ。

      *    *    *    *

 広美と春香は、フィーナと一緒にシュタイニバッハの食堂で昼食をとり、それから車で郷土資料館へと向かった。資料館は広美と春香が中世にタイムスリップした時に繋がれていた牢獄を、修理してリフォームしたものであったが、実際には500年近くの歳月が経過していたため、所々風化していて、建物の一部は崩落の危険があった。地下牢があった部分は崩落の危険があるために完全に埋められていて、当時の面影はなくなっていた。が、広美や他の少女達が繋がれていた半地下式の独房は、石畳や石の壁が修復され、今でも当時に近い形で残されていた。因みに、かつての拷問塔の建物は何も手をつけていなかったために崩落して廃墟となり、例の冷酷な神父が住んでいた家も、長い年月を経て朽ち果て、現在は広大な畑や牧草地の一部と化していた。
 フィーナが運転する車は、その牧草地の中の道路を走っていて、広美はその牧草地と、遠目に広がる樅の木の森を眺めていた。広美の目にはその風景が懐かしく感じられていた。500年という年月を経過しているものの、その風景はあの時の姿そのままに見えていたのだ。違うところといえば、道路沿いの所々に家が建っているということだった。
 20分ほど走ったところで、牧草地の向こうの高台に、かつて見たことがある建物。つまりシュタイニバッハの牢獄が見えてきた。

      *    *    *    *

 フィーナの車は資料館の駐車場に乗り入れた。車は管理人のものらしいものが一台、駐車場の片隅に停められているだけだった。
「広美さん。春香さん。着きましたよ」
 広美と春香は車から降りると、資料館の建物を眺めた。自分たちにとっては10年前の出来事であったが、時代は約500年の歳月が経過しているせいか、付近の様子は風変わりしていたものの、建物のその姿はかつて自分たちが繋がれていた牢獄の建物そのままに、そこに建っていた。フィーナは二人を促すと、資料館と隣り合わせで建っている小さな建物を指差し、そこへ向かって行った。入り口には『管理人室』と書かれていた。人の気配を感じたのか、建物から一人の若い男が出てきた。その男の顔を見た広美は、ハッと驚いたような表情をした。かつてのシュタイニバッハ監獄の看守の一人、ヘスとウリ二つの顔をしていたからだ。
「この人がここの管理人さんです」
 そう言ってフィーナは広美と春香に自分の方へ来るよう促した。
「この人はシュタイニバッハの町の職員で、ハインリッヒ・W・ヘスといいます。この人ともう一人の人が一週間交代でここの管理職に携わっているんです」
 広美と春香はヘスと聞いて一瞬ドキッとしたが、ヘスに向かって会釈し、ヘスもそれに応えて会釈した。フィーナは広美に小声で言った。
「入館料を払ってください。あそこにある箱の中に入れます」
 そう言ってフィーナは建物の入り口にある台の上にある箱を指差した。広美と春香は財布から小銭を出すと、箱の中に規定の金額を入れ、その間にフィーナはヘスに二言三言会話をしていて、ヘスは頷くと広美と春香に向かって言った。
「アリガトウゴザイマス。ソレデハミナサン。ゴユックリドウゾ」
 そう言ってヘスは建物の中に入っていった。
「さ。広美さん。春香さん。行きましょう」

       *    *    *    *

 資料館の外回りは昔風の作りそのままであったが、内部は現代風の内装が施されていて綺麗になっていた。窓の部分はしっかりとガラス窓になっていたし、廊下の部分も石畳ではなかった。広美と春香はフィーナの案内で、かつての牢獄である資料館の中を見て回っていた。室内に展示されたものは、一般的な博物館のような、ごく普通のありふれたものばかりだったので、広美と春香は物足りなさを感じていた。フィーナは二人のその様子を見逃さなかった。
「広美さん。春香さん。今まで見てきたものは、ありふれた展示物ばかりだから、見てもつまらなかったんじゃないんですか?」
「い・・ いえ・・ そんな事ないです」
 春香は慌ててそう言ったが、広美ははっきりと応えた。
「私の見解では、ごく普通の博物館の展示物のような感じがしました。ところで魔女狩りに関係した資料は無いんですか?」
「確かにそうですね。今まで見てきたものは、みんな普通の展示物なんです。それに広美さんも春香さんも、地下牢に閉じ込められたままだったから、上の階のものは全然見てなかったと思うんです。こっちへ来てください」
 フィーナは館内の案内板のところまで、広美と春香を連れてきた。案内板を見ると、元々の状態を表した牢獄の絵と、現在の資料館としての絵が並んで描かれていた。建物は地上が3階建てで地下が4階あるとなっていたが、地下2階より下は埋められていて、現在の絵の方には表示されていなかった。
「二人が繋がれていた場所は、地下一階なので、現在でも残されています。魔女狩りに関する資料や展示物も、この地下一階の部分にあるんです」
 そう言ってフィーナはその部分を指差して説明した。
「二人が地下の部屋を見たがっているのはよく分かるんですけど、まず屋上に上がりましょう」
 フィーナは二人を屋上へと案内した。螺旋階段を上って屋上へ出ると、周囲にある広大な牧草地と樅の木の森。そして箱庭のようなシュタイニバッハの街並みが二人の目に映った。
「わあ・・ すごいいい眺め」
 春香は小走りに駆けると、手すりを両手でつかんで周りの景色を眺めた。広美とフィーナは二人で並んで歩きながら、春香の傍へ行った。
「広美さん。春香さん。周りを見て、何か気付いた事は無いですか?」
 春香は黙って考えていたが、広美はすぐ返事をした。
「雪が少ないですね。私が一時解放されて、村長さんのところに厄介になっていた時、このあたりは6月~9月の短い間だけ夏が訪れて、それ以外は雪に被われるって聞きました。私たちが自由の身になったのが3月頃だったと思うんだけど、たしかその時も地面は雪に覆われていました。今もあの頃と同じ時期なのに、随分違うなって感じました」

後編17

「そうなのよ。広美さんも分かってると思うけど、これは温暖化の影響なの。今はこの季節はもう雪が溶け始めて、全く雪が残っていない場所もあるのよ。このあたりの夏の平均気温も、中世の頃と比べると10℃前後上がっているらしいわ」
「そういえばアルプスの氷河が消えている場所があるって、ニュースで言っていた」
 広美は周りの景色を眺めながらそう呟いた。吹く風は冬の風で冷たく感じられたが、しかし空は快晴で、陽が当たると暖かく感じられた。

      *    *    *    *

 三人は螺旋階段を降りていた。いよいよ地下の展示場へと向かうのだった。内装の床は現代風だったが、螺旋階段の床だけは石畳が施されていて、歩く音がカツカツと響いた。やがて三人はお目当ての地下一階に下りた。そこだけは今までと違って、壁は石を積み上げた石壁になっており、床も石畳という中世風の作りになっていて、地上の階との極端な違いに、広美と春香は驚いたような顔でお互いを見合った。電気が付いているとはいえ、蛍光灯ではなくて光力も小さく、昔の蝋燭を灯しているような感じの明るさだった。
「地下だけは壁も床も当時の状態に近いような感じになってるんです。もっとも壁も床も天井もリフォームされていますけど・・・ 足元が暗いから気をつけてくださいね」
 石造りの廊下を歩く三人の靴音が、周囲に木霊していた。三人はまず拷問部屋という札がついた部屋に入った。広美と春香が拘束されていた当時は、牢獄には拷問部屋は無く、牢獄から1kmほど離れた場所にある『拷問塔』にて拷問が行われていて、広美はいつもそこまで鎖に引かれて連行されていた。
 シュタイニバッハ監獄を資料館にしたとき、魔女狩り関係の展示エリアの一つとして、拷問部屋を作り、レプリカとして器具や道具を展示したのである。
 部屋に入ると室内は広く、例の三角木馬や引き伸ばし用のラック拷問台が置かれ、吊り責め用の滑車や鎖が天井からぶら下がり、鉄の処女や、水車型の拘束台、壁にも手枷が付いた数本の鎖が垂れ下がり、台の上には鉄球がついた足枷なども展示されていて、かつてこれらの道具で拷問されていた広美と春香は血の気が引いて、身が凍りつくような思いになった。
「ここにあるこれらの道具は、殆どが当時のものを参考に作られたレプリカなんです。前は蝋人形を使って拘束や拷問の様子を展示していたんですけど、某人権団体のひんしゅくを買ってしまって、蝋人形は撤去されたんです」
 広美と春香はフィーナの説明に頷いていた。広美は何を思ったのか、三角木馬に触れようとしたが、フィーナが止めた。
「広美さんダメです。そこの看板を見てください」
 広美は手を引っ込めると、フィーナが言った看板を見た。そこには『手を触れないでください』という文字がドイツ語や英語・そして日本語でも書かれていた。
「ごめんなさい。つい・・・」
「広美さんの気持ちは分かっています。だからもう良いですよ」

      *    *    *    *

「ここが地下牢です。地下牢は全部で3つあるんですけど、広美さんがつながれていた部屋は、多分ここだと思います」
 フィーナは四畳半くらいの部屋に広美と春香を案内した。その部屋は広美がかつて閉じ込められて鎖に繋がれていた独房そのものだった。広美にとっては10年前のことだったが、実際にはそれ以上に年月が経過しているから、当時の状態のままではなくて、ある程度のリフォームはされていた。全てレプリカであるが、正面の奥には吊り手枷がついた鎖が壁から垂れ下がり、その両隣にも鎖が垂れ下がっていた。そして左側には鉄格子のついた窓があった。広美はこの部屋で爪先立ちの恰好で両手を鎖で繋がれて吊るされ、両脚にも足枷を嵌められて、首にも重い首枷を嵌められていたのだ。そして横にある窓からは雪混じりの冷たい風が吹き込んでいたのである。

後編18

 吊り手枷を眺めていた広美の目に、かつての自分の姿が薄っすらと浮かび上がるのが見えた。広美は自分が繋がれていた壁まで小走りに駆け寄ると、その壁にそっと手を触れた。そして壁に背中をつけて両手を上に上げて伸ばしてみた。広美をつないでいた吊り手枷は、広美が伸ばした手よりも下の方にあった。
「(今だったら爪先立ちって事は無い・・・ 私も背が伸びたってことなのね・・・ あの時はすごく辛かったけど、もう思い出にしかならない・・・ )」
「ちょ・・ ちょっとフィーナさん」
 突然春香が叫んで、広美は我に返った。するとフィーナが土下座をするような恰好で、広美の方を向いている。
「フィーナさん。一体何事なんですか? どうしたの?」
フィーナの目を見ると、フィーナは瞳に涙をためている。
「フィーナさん。どうしたんですか?」
「広美さん。いや、広美ちゃん。許してください」
「え? 」
 突然のフィーナの言葉に、広美は固まった。春香も呆然としてした。
「広美ちゃんと春香ちゃんがタイムスリップして、魔女狩りで囚われて酷い目に合わされた原因は私なんです。私が広美ちゃんと春香ちゃんを辛い目にあわせてしまったんです」
 土下座しているフィーナと同じ目線にするため、広美もフィーナと向かい合うように石畳の床に座った。
「フィーナさん。いや、フィーナちゃん。顔を上げて。そんな日本式の土下座なんて何処で覚えたのよ。それに何を言ってるのか分からないよ。詳しく話して」
「私に不思議な力があったこと、広美ちゃんも聞いて分かってるでしょ」
 広美は神尾からその話を聞いて知っていたし、つい先日もフィーナ自身から聞いていたので、無言で頷いた。
「私が・・・ 私がお母さんを亡くした時、すごく悲しくて・・ もう生きているのも嫌になって、だからといって死ぬのも嫌だったから、いっそのこと別の時代へ行ってしまいたいって強く思ったの。それで、何故か知らないけど、本当に中世の時代にタイムスリップしてしまって、その力で広美ちゃんと春香ちゃんを巻き添えにしてしまったんです」
「(そういう事か・・・ それでフィーナさんは態度がおかしかったのか)」
「二人とも・・ ごめんなさい。お願い。許してください。謝ってもダメなのは分かってます。だから・・ Es tut mir sehr Leid. (本当にごめんなさい)」
 フィーナは胸元からナイフ(というよりも短刀)を取り出すと、刃の方を自分に向けた状態で、自分の前の床の上に置いた。何かを直感した広美は立ち上がると、そのナイフを脚で思いっきり真横に蹴った。ナイフは石造りの壁を直撃して、鋭い金属音が響いた。春香とフィーナが呆然として、飛んでいったナイフを目で追った。
「バカ!! 何考えてるのよ」
 広美は怒鳴ると再びその場に座り、フィーナの顔を見据えた。フィーナの顔は涙でくしゃくしゃになっている。広美は両手をフィーナに向けて差し出し、フィーナの両肩に置いた。フィーナの身体がビクンと震える感触が広美の手に伝わってきた。
「ねえ・・ 私たちが何のために此処に来たのか分かる? 少なくとも、私はフィーナちゃんに復讐するために来たんじゃないよ。私は自分の事を知るために来ただけ。春香ちゃんだって同じだよ」
「でも・・ 広美ちゃんと春香ちゃんに、取り返しのつかない事をしてしまった・・ 」
「フィーナちゃんのせいじゃない。絶対にそんな事無い。私は信じる。信じるよ!!」
 広美は春香の方を見た。春香も言った。
「私も信じるわ。絶対フィーナちゃんが原因じゃない」
「春香ちゃんだってそう言ってるよ。それに、フィーナちゃんは私が繋がれていたとき、優しくしてくれたじゃないの。お友達になってくれたじゃないの」
 広美の目からも大粒の涙が零れ落ちた。フィーナは目の前にいる広美に向かって抱きつくと、そのまま大泣きした。春香もその傍で顔を伏せて泣いた。

      *    *    *    *

 暫くして落ち着きを取り戻したのか、3人ともその場で黙ってしまっていた。広美は立ち上がると一番先に口を開いた。
「フィーナちゃん」
 そう言って広美はフィーナに向かって手を差し出し、フィーナはその手を握って立ち上がった。広美はフィーナを促すと、吊り手枷がぶら下っている壁の方へ行き、壁を背にして立つと両手を上に上げた。その前にはフィーナが立っている。

後編19

後編20

後編21

後編22

「わたしたち・・・  こうして出会ったんだよ」
 二人が出会ったのは10年前のこと。しかし、タイムスリップしていた事があって、実際の時代の開きは500年近かった。フィーナは壁の前に立っている広美に飛びつくと、強く抱きしめた。広美もフィーナを抱きしめた。
「過去の事なんかもういいのよ。大事なのは今とこれからの事じゃないの。私は絶対に信じる。絶対にフィーナちゃんのせいなんかじゃない。フィーナちゃんは悪くない」
 フィーナは広美の胸の中で泣いていた。その時人の気配がしたかと思ったら、管理人のヘスがやってきた。
「アノー・・・ オ取リ込ミ中申シ訳ナイノデスガ、ソロソロ閉館ナンデス」
 春香が、広美に抱きついているフィーナの肩を軽くポンポンと叩いた。振り返ったフィーナは広美と離れると、ヘスのほうへ駆け寄っていって、二言三言話をした。
「ワカリマシタ。ソレデハ、出来ルダケ早ク出テクダサイ」
 そう言ってヘスは去っていった。

「広美ちゃん。春香ちゃん。閉館の時間だから、急いで」
「うん」
 外からは閉館を告げる音楽が流れ始めた。広美は床に落ちていたナイフを拾い、三人は足早に地下牢の部屋を出ると、出入り口の所に立っていたヘスに向かって一礼し、資料館の外へ出た。


      *    *    *    *

 駐車場ではフィーナが車のエンジンをかけ、三人は車の傍で雑談していた。端に止めてあったヘスの車が発進して去っていき、場内にいるのは3人だけになった。広美は誰もいないのを確かめてから、持っていたナイフを草原の方へ向けて投げた。フィーナはかかってきた電話に応対していて、電話を切ったフィーナは広美と春香の傍に来た。
「広美ちゃんに春香ちゃん。今電話があって、シュタイニバッハの市内からあなたたちをここまで迎えに来るって言ってました」
「今日泊めてくれる家のかたですか?」
「はい。夏の間だけ民宿をやってるんですけど」
「今はシーズンオフ?」
「そうなんです」
「何かいつも申し訳ないですね」
「良いんですよ。そんな事気にしないでください。困っている時はお互い様じゃないですか」
その時クラクションの音とともに車が一台入ってきて、フィーナの車の隣に止まり、運転していた人が降りてきた。春香はその人の顔を見て大きな声を上げた。
「あ・・・ アリーナちゃん・・・・ 」
 アリーナははじめての人に自分の名を呼ばれたので戸惑った。が、フィーナが前もって教えていたものと思って、落ち着きを取り戻した。
 その人はまさしく、春香が牢獄で出会ったアリーナと同じ顔をしていたのだ。勿論成人しているから、春香の出逢った時の姿ではなかったが、それでも春香はしっかりと顔を覚えていたのだ。しかしそれは500年も前のことであり、その時に出会ったアリーナとは当然別人だった。が、その女性の名もアリーナだった。フィーナは広美と春香にアリーナを紹介した。
「この人は私の後輩で、アリーナ・S・フリューゲルといいます」
「Guten tag. Ich freue mich, Sie kennen zu lernen.  Mein Name ist Hiromi Aihara.  Das ist Frau Haruka Ayase. (こんにちは。はじめまして。私の名前は相原広美です。こちらの人は綾瀬春香です)」
 アリーナは広美と春香を軽く抱きしめた。
「広美ちゃんに春香ちゃん。私はこれで失礼します。明日9時に迎えにきて、トリステル駅まで送っていきます」
「ありがとうフィーナちゃん。今まで本当にありがとう」
 広美は右手を差し出し、フィーナと握手した。春香も続いてフィーナと握手した。
「それでもう一つ、フィーナちゃんにお願いがあるの」
「何、広美ちゃん」
「アリーナさんに言ってもらいたいんです。 せっかく車で迎えに来てもらったのに申し訳ないんだけど、私たちシュタイニバッハの街まで歩いていきたいんです。いいですか?」
 フィーナはアリーナに二人の事情を話し、アリーナは広美と春香に向かって言った。
「了解デス。デモ街ノ中ハ分カリニクイト思ウノデ、街ノ入リ口デオ待チシテイマス」
 アリーナは車に乗ると、駐車場から走って出て行った。
「それじゃフィーナちゃん。また明日ね」
「二人とも気をつけて。 Sehen wir uns wieder. (また会いましょう)」
 フィーナも車を発進させて去っていき、広美と春香だけがそこに残された。
「さてと・・・ 春香ちゃん行こうか」
「うん」
 広美と春香は資料館をあとにすると、シュタイニバッハの街へと続く道を歩き始めた。両側に広がる広い畑と牧草地は、所々に残雪があり、ときおり冷たい風が吹き抜けていく。二人は畑の向こうにある樅の木の森を眺めていた。
「広美ちゃん覚えてるかな・・」
「何を?」
「私が広美ちゃんを牢から出して、二人で逃げた時の事」
「うん・・ そんな事あったよね」
「あの時見えていたのって、あの森だったんじゃないのかな」
「そうだね・・・ あの時は夜だったからよく分かんなかったけど、たしかに森が見えていたよね」
「でも結局は追いつかれちゃって捕まってしまった・・・ 」
「私が街の広場まで連行された時、通った道はこの道だったかもしれない」
「私もそうだった。私もきっとこの道を歩いたんだわ。広美ちゃんが処刑されちゃうって・・ 広美ちゃんに向かって駆け出したんだっけ」
 広美と春香は、シュタイニバッハの街までほぼ真っ直ぐにのびている舗装道路を眺めた。

      *    *    *    *

「春香ちゃん。走ろうか」
「うん」
 広美と春香は小走りに駆け出した。その二人の目に見えているものは何なのか・・・ 遠くに見えているシュタイニバッハの市街地か、遠い過去の二人の思い出なのか、また・・ 二人のこれから先にある未来なのか・・・ その事を知るのは二人だけなのである。

後編23

      *    *    *    *

02-24P.png

ブログ用

 *******************


5年後・・・・・・・・

「起立・礼!」
「先生さようなら。みなさんさようなら」
 渚島にある小学校の教室では授業が終わり、生徒たちが次々と教室から出て行った。その姿を見届ける教師。“丹原春香”  ・・・・

後編24

 生徒が全員教室から出て行き、教室には春香だけが残されていた。誰もいなくなった教室で、春香は窓際へと歩いていって、窓の外を見た。初夏の爽やかな風が教室内に入ってきて吹き抜けていく。春香は大学卒業後、教師としてまず本土の小学校に赴任。その2年後に希望地の渚島に異動してきた。そして同じ年に大学時代から付き合っていた修平と結婚し、現在一児の母になった。
 春香は開けた窓から空を眺めていた。あの時・・・  広美と春香が中世にタイムスリップした時のように空は快晴だった。
「広美ちゃん・・・ 今頃ドイツで元気でやってるかな・・・ 広美ちゃん。私は元気で頑張ってるよ。たとえ何処にいようとも、広美ちゃんは同じ空の下にいるんだから。だから寂しくなんかないよ」
 そう呟いて、春香は窓を閉めた。


     *    *    *    *

 ここはドイツのシュタイニバッハ・・・・
 広い牧草地の中に佇む一人の少女。
 少女の名は広美・・・・・


 相原広美、25歳。もう少女といえる容姿ではないが・・・ 
 広美はシュタイニバッハの牧草地で一人佇み、晴れ渡った空を眺めていた。向こうの方の高台の上には、かつて自分がつながれて閉じ込められていた牢獄、そしてかつて訪れたことのある郷土資料館が佇んでいた。
 広美は城南大学3年生に進級と同時に再び神尾の助手を務め、大学卒業後、そのまま同大学の大学院に進学し、修士課程卒業後、博士課程の試験合格と同時に休学して、トリステル大学に留学するため、再びドイツにやってきたのだ。そしてトリステル大学で講師をする傍ら、例のベイダー博士の元で、フィーナとともに研究に明け暮れる毎日を送っていた。
「この空の向こうには春香ちゃんがいる。春香ちゃん・・・ 私はちゃんと元気でやってるよ。たとえ遠く離れていても、二人の友情は絶対に変わらない。だって同じ空の下にいるんだから・・・ だから寂しくなんかないよ」
 広美はポケットから手帳を出すと、その一番最後のページに入った一枚の写真を見た。

後編25


     *    *    *    *

            (Ende)


十戒についてのレポート

2016年 04月21日 14:28 (木)

十戒について

聖書に続いて、今回は十戒についてのレポートです


十戒-序論

1.序論

 十戒は「Decalogae」という。これは「10の言葉」という意味である。十戒は旧約聖書にあるもので、モーセと結び付けられ、「モーセの十戒」ともいわれていて、キリスト教の源泉であるともいわれている。イエスにしても、またその弟子達にしても、人々に語るときに十戒をよく引用している。新約聖書ではイエスの教えを通して、十戒を遥かに超えた表現がなされていて、キリスト教の思想を学ぶためには、この十戒を学ぶ事が非常に必要である。十戒はキリスト教を支える3つの柱(十戒の他、主の祈りと使徒信条がある)のひとつで、これは最も古い言葉(紀元前1300年頃)であるといわれている。主の祈りは紀元30年、使徒信条が機嫌400年頃のものであるから、十戒がいかに古いものであるかが分かる。
 十戒は旧約聖書にあって、出エジプト記第20章と、申命記第5章6~21節にある。内容は全体的に同じであるが、互いに表現の違う点が僅かに見られる。その一つは安息日についての事で、出エジプト記では創世記の天地創造を基にして書かれているのであるが、申命記ではエジプト脱出を記念した「解放記念日」のような表現で書かれている。もう一つの例として、第10の戒めとして書かれている、「むさぼるな」という表現が、出エジプト記では「他人の家をむさぼるな」という言葉が始めに出てきているが、申命記では「妻をむさぼるな」という言葉になっている。つまりそれぞれ言葉の順序や表現に相違点が見られる。
 最初のころの十戒は断言的かつ無条件的であったが、モーセの死後のパレスチナ定着以後は、条件的・習慣的になり、前者が強い否定的な性格で砂漠の生活を反映している傍ら、後者では肥沃地的な繁栄になっている。十戒は最初は順番が無く、暫く後になってカトリック教において、10の戒めを3と7の二つに区切ってまとめ、最初の二つの戒めを一つにまとめ、さらに対語の10番目の戒めを二つに分けて表現した。一方プロテスタントでは4と6に分け、1~4番目までを神と人との関係(信仰)とし、5~10番目までを隣人との関係(愛)として表現している。なお、十戒は出来た当時は2枚の金の板でできていて、後に木の板に変わった。
 十回には序文があり、これは前文となって、出エジプト記第20章2節にある。この中の「貴方の神」というのは、『アブラハム・イサク・ヤコブの神』の事であると、神はモーセに対して呼びかけている。そしてそれはモーセの神と呼ばれ、さらに後の新約聖書になって、イエス・キリストの父なる神と呼ばれるようになる。この神というのは人格神で、人間の前に現れる神の事をいう。そして人間の歴史を支配する神である。日本では自然を神としており、昔から山や森・海・湖などは神として崇められてきた。ところが人格神は自然の神と違って、言葉を持って意思を伝える神の事で、また選びと契約の神でもある。

2.歴史の神

 出エジプト記は『奴隷の家からの解放』であり、十戒の全文に記されているように、イスラエル人たちの歴史の出発点でもある。イスラエル人達はエジプト脱出後、40年間も荒野で生活していた。その間に彼らはエジプトに戻ろうかと考えたほど生活が苦しかった。出エジプト記はイスラエルの歴史の源泉であり、また「初心忘るるべからず」という言葉が繰り返し語られている。
 
『木はその実によって知られる』という言葉がある。この「木」とは信仰を表し、「実」はそま信仰の実践を表しているもので、これらは互いに切り離す事は出来ない。十戒の第1~第4戒間では水平を表し、第5~第10戒は垂直を表している。これは水平と垂直とが交わる事によって、キリスト教のシンボルである十字架の意味を表現しているのである。



十戒の研究と考察・解説

Ⅰ. 第1戒  
汝、我が顔の前に、我の他何者をも神とすべからず

 これは神の唯一性を表している。一人とか一つという表現は、キリスト教上重要なものである。神というのは多数存在しているが、イスラエルにおいてはその中の一つのヤーヴェ(エホバ)の神を信仰し、それ以外の神は神ではないから信仰してはいけないということであった。
 モーセはカナン定着を前にして死に、その後継者であるヨシュアが、シケムというところで神との契約を結び、そしてカナンへと入っていった。
さて、キリスト教は第1戒にあるように、結いいちの髪を信仰する宗教で、これは「monotheism」という。唯一神ということは、キリスト以外の神は、神であっても神ではないという考え方であり、あるいは神以外のものを神とはしないということであって、神々の追放、世界の非神格化(富・人間・イディオロギー・権力など)を表している。マタイ福音書第6章24節には、「神と富とに兼ね仕える事は出来ない」という言葉がある。この「富」というのは、第二の神を表していて、かつ拝金主義を表している。

 Ⅱ. 第2戒
 汝、己のために何の偶像を彫むべからず。また上は天にあるもの、下は地にあるもの、ならびに地の下の水の中にあるものの、何の形をもつくるべからず。これを拝むべからず。これに従うべからず。我エホバ汝の神は妬む神なれば、我を憎む者に向かいては、父の罪を子に報いて三四代に及ぼし、我を愛し、我が戒めを守る者には恵みを施して千代にいたるなり

 偶像の禁止を戒めているものである。キリスト教は姿・形の表現が無く、心・言葉において人間に表れるという概念がある。言い換えれば「神は霊である」ということであるが、人間は目に見えるものが欲しいという願望を心の中に常に持っており、アロンの造った「金の子牛」がその例であって、この事は出エジプト記第32章に書かれている。これは偶像崇拝というもので、キリスト教ではこれを禁止している。さらに追求すると、これは神の霊性というものを表している。ヨハネ福音書第3章にある「霊は風である」という言葉のように、霊は姿・形のない自由なものであるとされている。さらにヨハネ福音書第4章24節では、「霊と真とをもって礼拝せよ」という言葉もある。

 Ⅲ. 第3戒
 汝の神エホバの名をみだりに口にあぐべからず。エホバは己の名をみだりに口にあぐる者を罰せではおかざるべし

この神の名という『名』が持っている意味には、次のようなものがある。それはこの第3戒が前の二つの戒めと深い関係があり、名が実体を表すものだからである。つまり名前はその人、または物の実体や存在を表すために大切なものなのである。人によって自分の名を変える人もいる。例えば旧約聖書ではアブラムがアブラハムと改名しているし、新約聖書ではイエスの弟子のペテロは、元はシモンという名前であった。そしていずれもその人の新しい道を開くための改名であった。というのは、前者は多くの国民の父となり、後者のペテロは「岩」という意味で、後に教会の基礎となったのである。
ところで、神の名というのは、人が神に対して名付けるのではなく、神自身が示すか、あるいは神が人間に対して示すものなのである。聖書を例にすると、出エジプト記第3章6節には、『アブラハム・イサク・ヤコブの神』と表され、同じく第3章14節には、『有って有る神』と表されている。この表現は「在ろうとして有ろうとするもの」という実にいの表現とも考えられている。
旧約聖書の神は、「God who acts(働きかける神)」とも言われていて、これは神自身で示されたものである。また新約聖書ではイエスはインマヌエル(神我々と共にいますという意味)とも呼ばれている。
神の名をみだりに唱えるということは、神の名を人間の利益のために用いて呪術的なものを通し、人間の意志を実現させようというもので、これは神の名を汚すものである。神の名を唱えるという事は、真実の言葉でなければならない。つまり人間の意思表示のために唱えられてはいけないのである。

Ⅳ. 第4戒
 安息日をおぼえてこれを潔くすべし。六日の間働きて汝の全ての業をなすべし。七日は汝の神エホバの安息なれば、何の業もなすべからず。汝も汝の息子娘も、汝のしもべもしもめも汝の家畜も。汝の門のうちにおる他国の人も然り。そはエホバ六日のうちに天と地と海とそれらの全ての物をつくりて、七日目に休みたればなり。これをもてエホバ安息日を祝いて聖日としたもう
 
安息日というのは「中止する(シャーバス)」という言葉から来たものであって、「聖とせよ」という表現は、その日は仕事を休めて、仕事をする日々と区別せよという表現なのである。「休む」という意味は、神の創造の祝福をおぼえることで、神の救いにあずかることである。
ユダヤ教では元々土曜日が安息日となっていた(現在でも同じ)。キリスト教の場合も、歴史の始め(紀元0年前後)つまりキリスト教の初期の頃は土曜日であった。が、キリストの復活を記念する意味として、パウロの時代から日曜日を「主の日」として礼拝を守るようになり、今日に至っている。また日曜日は週の初めも表している。

Ⅴ. 第5戒
汝の父母を敬え。これは汝の神エホバの汝に賜うところの他に、汝の命の長からんためなり

 ここでは家族の意味を考える必要がある。神と人との関係は契約であり、また人というのは個人ではなくて共同体であり、一つの民族であると考えてみる必要がある。また共同体は個人の集まりではなくて、家族の集まりであるといわれている。これは家族論理といって、特に家族は血縁共同体であるから、家族の中での共同体は結びつきが深い。イスラエルの場合では、それを信仰共同体とも考え、父の責任は重く、その役割も大きかった。家族内での宗教教育や行事、また権威も持っていたのである。
 この戒めは親に対するこの責任であって、成人した子に対する戒めであるとされている。成人するという事は子が独立し、親と対等になる事を意味しているからである。
イエスの言葉の中に、『私より父や母を愛するものは相応しくない(マタイ第10章37節)』というものがあるが、これは父や母を捨てるという事ではなく、父や母以上に神を敬うということを意味している。

Ⅵ. 第6戒
汝、殺すなかれ

『殺す』ということは、ここでは神に対する罪なのである。というのは、聖書では人間は神によって神の形に作られたものとされているからである。また、「目には目」「命には命」「血には血」などという律法は、イエスの山上の説教でも引用されているが、これは加害者への償いを求める精神であって、被害者の感情に於ける復讐ではない。

 Ⅶ. 第7戒
汝、姦淫するなかれ

性関係を含む男女の正しい関係、つまり互いの横の関係というもの(第5戒の親子の縦の関係と比較して)を表現しているのである。そしてこれは神との正しい契約の関係でもある。バルトという神学者は、人間の連帯性という言葉を唱えており、正の人間性や男女の関係をも説明している。姦淫の罪というものは、結婚における神と人との契約の比喩を意味し、神を夫にたとえ、その支配下のイスラエル(聖書におけるもの)が妻にたとえられているおりから、姦淫というものは結婚以外の性的行動であり、それを行うことは夫が妻を、また妻が夫を裏切る事であり、そして神を裏切る事(神への背反)でもある。
また、一夫多妻制という制度は、多神教が背景となっていて、この制度は女というものに対する不利な条件である。一神教においては、一部の例外(回教は一夫多妻制がある)を除いて一夫一婦制である。
現代における結婚や男女関係は、性の自由が肯定されてしまい、離婚率が高い。結婚というものは一対の男女の性関係における、排他的・永続的生活共同体なのである。そして聖書においては、神の許しの下に立つ信頼関係ともいわれている。

Ⅷ. 第8戒
汝、盗むなかれ

第7戒では配偶者を大切にする事を戒めており、ここでは所有物を大切にする戒めが書かれている。所有の権利、また人間関係は、所有関係を伴うものであるとされ、所有は神からの嗣業として人間に与えられたものなのである。出エジプト記第22章1~3節には、盗みに対する償いがどんなに辛いものであるかが書かれている。このようなことがなければ、所有の問題を通じて人間関係に崩れが生じてくるからである。そして盗みが権力や軍事力(ここでの盗みは横領のこと)と結びつくと、重大問題となってくる。聖書では盗みは神への反逆であると書いてある。

Ⅸ. 第9戒
汝、その隣人に対して偽りの証を立てるなかれ

偽証を立てるということは、虚言の証人になるという事である。そして隣人に対する偽りの言葉の否定であり、その具体的場面を前提としている。申命記第19章15節には、「証言の重要性」が書かれている。ここでは証人は二人以上いなければならない事になっている。新約聖書における、イエスに対する裁判が違法であるという事も、この第9戒によるものなのである。裁判における捌きは判定であり、公平と正義を前提とし、もし偽りがあれば裁くものが逆に裁かれる事になる。そのため、裁判における証言は重要であることがわかる(例・出エジプト記第23章1~9節)。そして貧しい人々や他国人のための配慮(どのような条件でも裁判を曲げてはならない)もなされた。旧約聖書の列王記上第21章の『ナボテのブドウ畑』には、その例が書かれている。申命記第19章15節には『真実の証言の命令』があり、これは偏見・自分の利益・自己防衛を取り除く事が勧められている。また偏見は予断と結びつくと大変なことになる。パスカルの著書パンセには、「真実を言う人は嫌われる」と書かれている。というのは、人間は自分に対する不利な条件を恐れるからである。しかし、まともな人間ならば、当たり前の事を出来ないというのはおかしいことであり、自分の過ちは素直に認めることである。

Ⅹ. 第10戒
汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。また汝の隣人の妻、及びそのしもべ、しもめ、牛、ろば、ならびに汝の隣人の持ち物をむさぼるなかれ

『むさぼる』ということは、第6~第9戒のような表面的なものに比べ、内面的なものである、「貪欲という精神犯罪」の事を指している。むさぼるという言葉は、「ムザと欲する」ということで、みだりに欲しがるという意味である。ルカ福音書第12章13~21節には、「愚かな金持ち」のたとえが書かれている。この例は自分の所有を過信し、貧しい人々への配慮を忘れた事と、必要以上の物を蓄えた事から起こったものである。必要以上のものを蓄える事は、「むさぼる」ことにつながるのである。
 人間の一生にとって日と様なものは何か?  というと、単純な生活でよいのである。故に、それ以上に必要なものは余分なものであり、あっても無くても同じことなのである。

 十戒の言葉全体を成就したのはイエス・キリストの福音である。そしてイエスの福音は愛の戒めである。




イエス・キリストと聖書

2016年 06月28日 18:21 (火)

こういうジャンルで掲載するのは初めてです。自分が信者というわけではないのですが、学生時代(高校と大学)はミッションスクールだったので、キリスト教関係の授業が必ずありました。そこで作成したレポートの中で、比較的出来の良かったものを手直しして掲載することにしました。


イエス・キリストと聖書について

1.イエス・キリストにおける『隣人愛』の研究
良きサマリヤ人のたとえ話(ルカ:第10章・25~38)

 これは隣人愛について語られたものである。しかし、隣人愛についてはイエスが最初に語ったものではなく、それ以前つまり旧約聖書において既に記されていたものである。
 この話に登場する『サマリヤ人』は、ユダヤ人にとっては異邦人であった。異邦人とは、ユダヤ人が自分達以外の民族を蔑視した呼び方である。また、他に登場する祭司やレビ人はユダヤ人である。祭司はエルサレムの神殿に仕える人であり、レビ人の中から選ばれる。つまりレビ人以外から祭司になれる者はいないのである。レビ人とは一部族を指すもので、旧約聖書のレビ記に記されている。レビ人はユダヤ教の正統的な人々の事で、これに対してサマリヤ人のことは世俗人という。
 ところで祭司やレビ人たちは、外的・美徳的行為として、『隣人愛』をいつも会堂で語っている。だから彼らが、強盗に襲われた旅人を助けるのは当然の事なのである。それに対してサマリヤ人は、ユダヤ教の事など殆ど知らない異民族なのである。
 このたとえ話は、イエスが祭司やレビ人たちを間接的に批判しているものだといえる。ユダヤ人がしなかった事を異民族のサマリヤ人が隣人愛を行ったということから、話の中身が見えてくる。いくら律法の知識があっても、それらを実行しなければ、全くの無用の長物なのである。イエスの言う隣人愛とは、親しい人々同士のものではなく、広く遠くへと連なる大きなものなのである。
また、この話はルカによる福音書のみに記されているため、ルカの創作だという説もある。


2. イエス・キリストにおける『試誘(トライアル‐テンプテーション)』の研究
荒野の誘惑(マタイ:第4章・1~11  ルカ:第4章・1~13)

 この話は歴史的事実であるとはいえない。それは福音書がイエスの生涯について、確実な根拠を持たないからである。こういうものを『聖者伝説』といい、他の宗教でも例が多数ある。従ってイエスの弟子達が創作したものであるとも言われているし、弟子達が考えて創り上げた『イエス・キリストの像』であるともされている。またこの話はマルコの福音書には記されていないので、マルコの知らないところで記されたものといわれている。
 試誘(トライアルーテンプテーション)とは、『試練』の試と、『誘惑』の誘とをそれぞれ組み合わせた言葉である。そしてこの話は、神が悪魔をして、イエスに試みを受けさせたものだとされている。これは聖書を元に考えられたものであるが、直接イエスを試みたのが悪魔で、その背後に神がいたものとされている。
 ここで登場する悪魔(サタン)とは、エゴイズムの人格的表現で、悪を誘惑する力の事を意味する。この話は、人が何を求めているのかを鋭く描き出していると思われる。人にとっては悪を求める事は魅力的なことであり、イエスもまた、これによって試されたのであるといわれる。そしてイエスはそれらに打ち勝ったのであった。

 第一の試み: 石をパンに変えよ(物質的なもの)
 この言葉は広い意味で『富』と『金』とをひっくるめて表現しているもので、人の物質的欲望について試みられたものである。これに対するイエスの答えは、「人はパンだけで生きるのではない」である。だがこの言葉はパンを無視しているのではない。もしもパンだけで生きる事を主張すれば、人生の目的が金となり、つまり拝金・物質主義をもった人間となってしまう。その事は現代においても絶えることが無い、贈収賄などの汚職につながっている。人間にとって富の魅力は耐え難い願望だからである。それでイエスは先の言葉に続けて「人は神の言葉によって生きている」と言ったのである。決してパンを否定しているのではなく、パンだけという言葉に、上述したものが意味づけられているのである。

 第二の試み: 神の子なら宮の頂上から下へ飛び降りてみよ(精神的なもの)
 聖書にある『宮の頂上』とは、エルサレム神殿のことである。この試みは、イエスが神の子である事を証明し、その力を誇示して名声を民衆に求めようという誘惑である。この事は、人が名声を高め、それを得るために他人が出来ない事をするという意味につながる。つまり「有名になりたい」という人の心(気持ち)を試したものである。この事もしばしば悪と結びつく。これに対してイエスは「神を試みるな」と言って退けた。

 第三の試み: 悪魔を崇拝するならば世界中の全てを貴方にあげましょう(政治的なもの)
 世界支配の権力を求めるもので、つまり世界を自分の思うがままに動かしたいという感情・欲望への誘いである。これは古今東西の政治家だけが持っているものではなく、人間全体の潜在的な意識でもある。

 これらの3つの誘惑はみなそれぞれが結びついていて、一つの集合体となっている。金・名声・権力の3つがあれば、これらにかなうものは無いのであり、人はこれらを常に求めるのである。しかし、時に欲望(限定されたもの)は貪欲(無限)を呼び、自滅へとつながることもある。


3.イエス・キリストにおける『理想主義』の研究
山上の垂訓(マタイ:第5~7章・ルカ:第6章20~38・第12章21~40)

 聖書にもあるように、イエスの話した場所が山の上であったので、そういわれている。しかしルカの福音書においては平地であったとも記されている。マタイはイエスをよく観察していた人の一人であり、この話の中心は彼が記した福音書の第5章にある。マタイの福音書第5章の21~48節では、律法に対する反対命題(アンチテーゼ)について記されている。命題とは、旧約聖書における律法であり、イエスの教えがその否定にあたるので、反対命題という事になる。
 ロシアの文豪トルストイが、山上の垂訓をそのまま実行しようとして失敗したように、このことは人間には到底不可能な事なのである。また、まじめに考えても不可能であり、理想論でしかないのである。実際イエスは理想主義者であり、その教えが非現実的になってしまったこともしばしばあった。また、ルター派の人々は、人間の心の歪や不可能な事柄は、それは人間の罪であると語っている。
 律法とは、神の意思を伝達する言葉であるといわれていて、ユダヤ人たちにとっては大変重要なことであり、その中でもモーセの十戒は最も重要なものである。イエスが旧約聖書をどのように解釈していたのであろうか、というと、イエスの理想(律法の理解)は立法の否定ではなく、もっと深い意味で律法を捕えていたと考えられる。イエスが反対したのは律法ではなく、その律法の形式主義的理解に反対していたのである。つまり律法の外面だけが人間の行為の形になっており、根源とは全く切り離されてしまっている事で反対したのである。イエスの律法主義批判は、偽善者(ギリシァ語でヒポクラテス、つまり演技者)への批判であり、律法学者やパリサイ人たちへの批判である。この内容はマタイ福音書の第23章に記されている。


4.イエス・キリストにおける『種まき』の研究
神の支配(神の国)

 マタイ福音書では、神の国という表現が無く、神の国を『天国』といっている。マタイ福音書はユダヤ的要素を持っており、そのため神を恐れて天国に置き換えたのだといわれている。神の国は、イエスの言葉による『神の支配』としてもよい。国というものは一つの領域を指すからである。これは王的支配ともいう。神の国は見えるものではなく、つまり形を持たないものであり、神の力があれば何処にでも神の国があるという事をイエスは語っている。これは現実的であり、また将来的でもある。つまり、何時それが来るのかを明確にする事が出来ないからである。そしてそれは発展や拡張ではなく、不連続なものなのである。
 マルコ福音書の第4章26~32節によると、神の国というものは、『種』から始まり、芽を出し、成長して根をはっていくものであると記されている。これは神の国を種にたとえたもので、当時のユダヤ地方では、農民や羊飼いが殆どであったため、このようにたとえられたわけで、イエスは神の国の説明をするための材料として、『種まき』を選択し、神の国の何たるかを語ったのである。
 希望を持って受け止める事は、『信仰』である。つまり信仰は希望である。従って信仰は未来へ向かって開かれている事になる。イエスの語ったことは、神の国の未来についてであり、聖書による『からし種』とは、「ちいさいもの」のたとえである。つまりこの話によって、ちいさいものが大きくなる事をたとえて言い表しているのである。大きくなる事は将来性であり、現代の姿においては見出すことが出来ない。


5.イエス・キリストにおける『帰郷』の研究

(1)野の花・空の鳥(マタイ:第6章25~34 ルカ:第12章21~34)

 何故イエスは、野の花や空の鳥を引用したのか・・・・
 またこれは何を意味しているのか・・・・・
 広い意味でこれは自然を表している。はっきり言うと人間に対し、人間の失っているものを引き出そうというのが目的であったといわれている。「人間は神によって護られている」ということを人間は忘れている、という事でイエスは野の花や空の鳥の生き方をたとえたのである。野の花や空の鳥は、人間みたいに種をまいたり作物を収穫したりしないし、食物を蔵に貯蔵しておくこともしない。それでも神が護っているのだから、人間はそれ以上に護ってもらっているのである。それなのに人間は明日の事を思い煩ったりして、自分たちの心を失ってしまっているのだとイエスは語ったのである。
 また。この話の中から現代人の故郷喪失を表しているところがある。この故郷とは、暖かい安らぎまたは自然を表し、今の人間はそれを失っているということである。今の人間は近代文明の影響に呑み込まれ、故郷に対する理想を失ってしまっているのである。故郷には人間同士の心のふれあいがあり、また故郷にあるもの全てが人間の心のふれあいを表している。ところが、現代の生活では都会ばかりでなく、田舎までも文明の波に侵されてしまっている。道路は車のためのものとなり、人間は無視されるようになった。
何故か??
 それは近代の人間の考え方によるものなのである。利用できるものはいくらでも利用するというだけで、利用できないものは無価値であると考えるのは人間のエゴである。草木は無価値であるというが、それは大間違いである。草木があってこそ人間も生きているのである。
 文学の言葉はイメージ形成の言葉、または自己表現の言葉である。科学の表現では自然の美を表現する事は出来ない。自然を美を表すのなら、文学的表現により、直感的かつ感覚的に組み立てる事によって表すのである。野の花・空の鳥の話は文学的であり、宗教的でもある。これは神と人・人と人・または人と自然との和解なのである。この心のやわらぎを神から受けている事を故郷というのである。

 (2)放蕩息子の話(ルカ:第15章11~32)

 この話は「よきサマリヤ人」のたとえ話同様、有名なものの一つである。ルカは文学的な人物であり、文学者であって歴史家でもあった。ルカはパウロと非常に深い関係があり、新約聖書の使徒行伝も彼の記述である。
さてイエスはどのような意図でこの話をしたのか・・・  また何が話の焦点なのか・・・
 この話はルカの福音書にしかないもので、よきサマリヤ人と同じように、ルカの創作であるといわれている。また、ルカ福音書の第15章には、次の3つの話が共通の内容で書かれている。

 1~7節 99匹の羊・8~10節 無くなった銀貨・11~32節 放蕩息子の話

 これらの話は、失われたものが戻ってくる事によって、ともに喜び合うという共通点がある。最初の二つは、失われたものを見つけるまで捜し続けるという内容であるが、三つ目の話は、失われたものが戻ってくるまで待っているという内容である。またこれらの話には、「悔い改める」という共通の内容がある。そしてこの話の内容は、ルカの主張が強く打ち出されており、またルカの言う「罪人」とは、不道徳な人を意味するのである。マルコ福音書の第2章17節には、「罪人を招くため」と書いてあるが、ルカ福音書第5章32節では、「罪人を招いて悔い改めさせるため」と書いてある。イエスの言う罪人とは、律法に無知な下層民として軽蔑されている人々を指している。
 さて、放蕩息子の話は、父の元を離れた息子が悔い改めて、再び父の元へと帰ってくるという内容が中心で、ここにイエスの考え方の根本がよく表されている。この話は二つに分けられる。前半は11節~24節で、これは弟の話であり、話の中心も前半の話にある。それに対して後半は、話を盛り上げるための付け加えであると考えられている。その後半の話とは、兄のことである。兄は父に対し、不平不満を訴えた。兄の言う事は正しいのか否か・・・  これは兄が父の本当の気持ちを理解していないのである。この話における兄とは、律法学者やパリサイ人たちを指している。律法学者やパリサイ人たちは、外見上では模範生でありながら、内面では偽善者なのである。だから兄もまた、それと同様に考えられるのである。兄も弟と同様、父の本心を理解できず、自分を見失っていた放蕩息子だったのである。つまり兄も自分の故郷を見失っていた事になる。イエスは社会的差別と偏見とに挑戦して、このたとえ話をしたのである。


6.イエス・キリストにおける『招き』の研究
失われた羊の話(マタイ:第18章12~24 ルカ:第15章1~7)

 この話は『迷える子羊の話』ともいい、マタイ福音書とルカ福音書違った表現がなされている。それは何か・・・・ マタイ福音書の場合は、羊のみをたとえた話であるが、ルカ福音書では罪人や取税人たちを通した場面の設定がある。ルカ福音書のほうはルカの捜索であり、ルカ自身の思考によるものとされている。しかし我々はこの状況を手意義付ける事は出来ない。しかしイエスが取税人や罪人たちを通してたとえ話をした事は確かである(歴史的事実)。さらにルカ福音書では、『いなくなった羊』。マタイ福音書では『迷い出た羊』となっており、後者は迷い出たものへの非難が含まれている。マタイの言う「迷い出た羊」とは、マタイ教団の一員(マタイの作った教会の事で、迷える羊とはその脱落者を指す)を意味している。が、いなくなった羊とは、その「いなくなった」という事の良し悪しをいっているのではなく、群れから逸れてしまった事を言っているのであって、脱落者を意味するものではない。これは教会外の異邦人を指しているのであって、それが悔い改め、キリストの教会に加わるという事の喜びが含まれているのである。また結論的にもお互いの相違がある。マタイ福音書では「小さいもの・弱いものへの救い」を強調し、一方ルカ福音書では「悔い改め」を強調している。この表現(強調)の違いは、互いに「マタイ的表現」「ルカ的表現」といわれている。
 しかし共通の焦点もある。それは二つある。一つは「飼い主が失った羊を捜し求める事」で、もう一つは「99匹の羊を野山に残し、いなくなった一匹を捜し求める事」である。飼い主とは言うまでも無く、神またはイエス自身を指しているもので、この話には「神の招き」・「求め」の先行性がある。しかし99匹を残してしまっては、夜盗や猛獣などの危険が多く、また羊が四散してしまうかもしれない。つまりこの飼い主は99匹を無視した無責任な人ともいえるが、それはどうなのか・・・・ イエスがここでは一匹の羊について強調したためのもので、他の事柄については話の外へ出してしまったのである。イエスの話では、このような性質のものが殆どのものに表されている。イエスは話における沢山の要素からの中から最も大事なものを取り上げ、それを強調したために、他の内容の事柄は捨ててしまっているように人々から見られてしまうのである。99匹の羊に関する問題では、飼い主が残った99匹の羊に対して信頼感を持っていたともいえる。
 しかし99匹を残したという事は、『愛の逆説』ともいわれる。言うなれば、ひとつのものに集中し、他のものは構わないという事である。
 ルカ福音書第15章の3つの話のうち、最初の二つは神が人々に求めているもので、最後の話は人から神に求めるものである。つまり人々の悔い改めが、神の赦しよりも先行しているのである。ルカは人々の悔い改めの重要性を語っている。しかし悔い改めは、人が自発的に行うことは出来るが、紙の赦しがそれ以前になされているとも言われている。それが現実化した時、初めて悔い改めが実行されるといわれている。
 マタイ福音書の18章21~35節は、迷える羊の話の展開であるといわれている。赦されることによって、人も同様に赦す事が必要なのである。この事は無限である。


7.本来的自己

『人が全世界を設けても、自分の命を損したら何の得になろうか(マルコ福音書第8章36節)』
 上述の文にある『人』とは、ローマ帝国を指しており、「命」はここではプシュケーという意味をなしている。プシュケーとは古い意味では「魂」と訳され、また自分の一番大切なものという意味がある。命はたとえいくら金を積まれても、絶対に渡せないものなのである。また、もう一つの意味として、「エゴイズム」というものもある。エゴイズムを捨てるという事は、自己をも捨ててしまうという事にもなるが、本来的自己は捨ててはならないのである。
 マルコ福音書12章31節に『自分を愛するように、貴方の隣人を愛せよ』と書いてある。これはイエスの創造ではなく、旧約聖書からの引用である。この事はレビ記19章18節に書かれている。ここでは自分を捨ててまで隣人を愛せよとは書かれていない。つまり自分を愛する事の出来ない人は、隣人を愛する事も出来ないのである。例えば自分のためにやった事でも、それが自分のためにはならず、かえって他人に迷惑が及ぶ事がある。またある事に対し、自分には直接関係が無いと思っても、次第に自分の方へと責任が回ってきたり、自分自身が危険になったりすることもある。従ってどのような事でも自分には関係が無いと軽率に考えてはいけないのである。

○ 本来的自己を愛するという事
 1:富める青年の話 イエスとの問答
 (マルコ福音書第10章17~22節  マタイ福音書第19章16~22節)

 ここでの「富める青年」とは、パリサイ人であるといわれている。聖書に書かれている内容から見ても、それが妥当であろう。この話の中で、イエスは青年に対し、「貴方の資産を全て捨てて皆売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言った。青年はこれを聞いて走り去って行った。このことからイエスは禁欲主義者であるといわれている。しかし、この話の中では、青年は自分の事ばかりを考えていて、他人の事を顧みなかったという事を意味している。当時のユダヤでは貧しい人々が多く、一日の生活も満足に出来ない人たちが大勢いたにもかかわらず、青年が彼らに対して全く無関心であった事をイエスは指摘したのである。つまり青年は自分の富に心を奪われ、本来的自己を忘れていたのである。

 2:マルコ福音書第10章42~44節
 
 ここでは仕える人とか僕(しもべ)という事を表しているが、話に出てくる「異邦人の支配者」とはローマ人を指している。イエスの弟子達は、全ての人々の僕であると、イエス自身が言った。イエスは決して権力を否定していたわけではない。ここではイエスは権力の用い方について説教をしているのである。つまり権力そのものではなく、権力と結びついた人間の欲望を否定しているのである。この欲望は、人々を腐敗させてしまうだけではなく、エゴイズムと結びつき、自分のために他人を支配する事になりやすいのである。権力は用い方を誤ると乱用され、自分自身を腐敗させてしまうので、イエスはそうならないように権力を用いるように言っているのである。

 3:タラントの話(マタイ福音書第25章24~29節)

 タラントとはお金の単位である。1タラントは現代の日本円で大体50~100万円であるといわれている。このタラントからタレントという言葉が生まれた。これは才能とか能力という意味である。この話は、ある主人が自分の三人の僕たちにそれぞれ5タラント・2タラント・1タラントを与えたもので、この結果、最初の二人は働く事によって倍の金額にした。が、1タラントを与えられた僕は、それを地に隠していた。つまり二人は活用し、一人は活用しなかったという内容であって、イエスはここで「活用する」という事について言っているのである。主人は僕たちに対して、それぞれの持っている能力について試してみたのである。能力は持っているだけでは無用の長物であり、また次第に無くなっていくものなのである。三人に与えられた金額はそれぞれ違うが、これは一人一人の能力を試すのが目的であった。ここではそれぞれの比較は問題ではなく、一人一人が自分の能力をいかに活用するかを問題としている。この話では「0」という事は無く、「+」か「-」のいずれかであって、最初の二人は+で、最後の一人は-となったのである。イエスはこれを「弱さのエゴイズム」と言っている。強いエゴイズムは積極的で傲慢なものであるが、弱いエゴイズムは消極的で怠慢なものである。そしてそれはしばしば見逃されてしまう。この事はつまり弱いエゴイズムによる本来的自己の不足なのである。
 ところで、この話は商売が絡んでいるから当然「失敗」も有り得る。もと結果が悪ければ主人はどうしたであろうか・・・・  これは一種の冒険であり、人生の中で一番大切なものである。主人は僕たちが失敗しても、僕たちを責めたりはしなかったであろうが、金の使い方について注意したであろう。それは失敗から何かを学び取るためであり、当然のことなのである。


8.イエス・キリストにおける『愛と自由』の研究

 愛には『アガペー』と『エロス』とがある。この二つのものの比較として、前者は「価値無きものへの愛」であり、無条件かつ他人のための愛である。そして相手に与える愛であり、イエスの言うところの「敵への愛」をも指す。敵への愛はむしろ反価値的なものである。それに対して後者はその逆を意味し、価値への愛・条件的愛・兄弟的愛・奪うための愛・またエゴイズムの愛である。またアガペーに関しては、純粋なものは人間には不可能である。
 アガペーの特徴は、聖書においては「敵を愛せよ(マタイ福音書第5章44節)」と、「家族を憎め(ルカ福音書第14章24節)」という言葉がある。その逆を言えば常識的になるから、イエスはその常識を破ったことになる。これには矛盾があるといわれるが、この話のみならず、イエスの言葉の大部分は内容的に矛盾しているので、これらの言葉を文字通りに取り上げると、かえっておかしくなる。そこでそれらのものの意味をつかむことが大切なのであり、また言葉通りに行うことは不可能である。これらの話の中には常識的な深い意味があるのだが、人はそれを簡単に見出す事は出来ないのである。
 さて、自由にも二つの意味がある。一つは解放的なものを意味し、もう一つはその自由の内容と目的である。前者は「~からの自由」。後者は「~への自由」を意味する。またこの意味を解らずに軽率に自由を唱えると、それは「乱用」ということになる。したがって自由とは、非常に深い内容と意味を持っているのである。
 パウロは「自由は愛の内容である」といっている。また、対人関係の非連続性(主体性)は解放の一面であるとも言っている。本当の愛というのは自他の融合・密着・癒着ではなく、自他の自由・独立・主体性の尊重の上に成り立つ。家族を憎むという事は、放蕩息子のたとえ話にある、「家出の精神」である。しかしそれは親を捨てるのではなく、自他の人格関係へと改めていく事なのである。
 ところで、よく夫婦一体と言われているが、これは他人の始まりであり、また親子や兄弟姉妹の関係も他人の始まりなのである。これが愛の一面なのであり、また、対人関係における連続性(連帯性)がある。敵と味方との関係ではそれが無い。が、無い時は積極的に結びつけるのである。また特にここでのイエスの「敵を愛せよ」という言葉はどんな意味なのか、というと、愛と憎しみは紙一重なのである。愛はエゴイズムと結びつきやすく、それが深ければ深いほど元の他人には戻れないのである。また他人同士の憎しみはともかく、兄弟同士の憎しみほど始末の悪いものは無い。そしてエゴイズムと結びついた場合は自分自身を正当化しようとする傾向がある。愛が憎しみに変われば敵対関係となり、それを乗り越える事がイエスの言う「敵を愛する」事なのである。これは神による可能性なのであり、またアガペーにおいて初めて可能なのである。
 マタイ福音書第5章38節には、無抵抗主義の内容として、イエスの言葉が書かれている。が、これは愛による抵抗なのである。従って無抵抗主義ではない。ローマ人への手紙の第12章21節には、パウロの言葉として「善をもって悪に勝て」と書かれている。


9.実存と社会

 イエスの思想の中心は『神の国』であり、またこれはイエスの視点でもあった。そして神の国は神の支配と結合し、無限である。
 イエスの生きていた当時の政治的状況はどうであったか? というと、当時のユダヤ地方はローマの支配下にあった。そしてローマはユダヤのみならず、地中海沿岸の殆どを支配下に置いていたのであった。ユダヤは紀元前5世紀頃に国家(ユダ王国)が滅亡してから、常に他国の支配下に置かれていた。ユダヤ民族の支配階級はユダヤ教に基づき、宗教的な支配者によって成り立っており、その中には祭司長や律法学者がいた。ユダヤの人々はローマ帝国の支配に対して、反対運動を行っており、また政治的なメシヤ(英:メサイア→救世主という意味)を待望していた。そして反ローマ運動を行っていた人々の事を「熱心党」といい、イエスの弟子達の中にもシモン(ペテロではない)という人物がいた。反ローマ運動は次第に高まり、紀元66年にはユダヤ戦争が起こったが、紀元70年にローマに敗れ、エルサレムが陥落してユダヤ民族は四散した。そして1954年にイスラエル共和国が出来るまで、ユダヤ民族は流浪の民族となっていたのである。
 さて、イエスは十字架刑によって死んだといわれている。聖書では人々の罪を背負って死んだと書かれているが、これは直接の原因ではなく、実際は当時の政治体制が原因していた。十字架刑はローマの刑法であり、この刑は政治犯を処刑するためのものであった。つまりイエスはローマの人々から見ると、政治的に危険思想を持った人物と見られていたのである。そして罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれたように、ユダヤ人の反ローマ運動の指導者として処刑されたのが明白である。またイエスは当時のユダヤ民族の間に広まっていたユダヤ教をも批判しており、ユダヤ教の関係者達からも憎まれていた。イエスが実際に反ローマ運動に加わっていたという見方もある。が、これは聖書に有る文献からすれば、あまり考えられないことである。イエスの死後、イエスの弟子達は、イエスの死を「贖罪死(しょくざいし)」と解釈して人々に広めたので、それ以来十字架はキリスト教のシンボルとなった。またイエスが政治体制に対して反抗したかどうかについては、あまりはっきりした資料が無い。
 マルコ福音書第12章13~17節に、「納税問答」がある。これはローマに税を納めるべきであるかそうでないかを問うたもので、イエスに対する悪質かつ卑劣な罠であった。イエスがどう答えても言いがかりをつけることが出来たからである。つまり肯定すればユダヤ側の敵となり。否定すればローマ側の敵となるからである。それに対するイエスの答えは、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神のものに」というものであった。イエスはこの問いが罠であることを見抜いていたので、曖昧かつ巧みに答えたため、これでは言いがかりのつけようが無かったのである。ここでイエスは何を言おうとしたのか? というと、これは両者の関係を述べたものである。マルコ福音書第6章33節に、『神の国とその義とを求めよ』と書いてある。また、キルケゴールの言葉に、『神の前に単独者として立つ』というものがある。これは「良心」の追求である。イエスが言うのは、神の前における自己のあり方なのであり、つまり我々が神の前に立ち、神の意思に従うということなのである。