鷲尾飛鳥

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十戒についてのレポート

2016年 04月21日 14:28 (木)

十戒について

聖書に続いて、今回は十戒についてのレポートです


十戒-序論

1.序論

 十戒は「Decalogae」という。これは「10の言葉」という意味である。十戒は旧約聖書にあるもので、モーセと結び付けられ、「モーセの十戒」ともいわれていて、キリスト教の源泉であるともいわれている。イエスにしても、またその弟子達にしても、人々に語るときに十戒をよく引用している。新約聖書ではイエスの教えを通して、十戒を遥かに超えた表現がなされていて、キリスト教の思想を学ぶためには、この十戒を学ぶ事が非常に必要である。十戒はキリスト教を支える3つの柱(十戒の他、主の祈りと使徒信条がある)のひとつで、これは最も古い言葉(紀元前1300年頃)であるといわれている。主の祈りは紀元30年、使徒信条が機嫌400年頃のものであるから、十戒がいかに古いものであるかが分かる。
 十戒は旧約聖書にあって、出エジプト記第20章と、申命記第5章6~21節にある。内容は全体的に同じであるが、互いに表現の違う点が僅かに見られる。その一つは安息日についての事で、出エジプト記では創世記の天地創造を基にして書かれているのであるが、申命記ではエジプト脱出を記念した「解放記念日」のような表現で書かれている。もう一つの例として、第10の戒めとして書かれている、「むさぼるな」という表現が、出エジプト記では「他人の家をむさぼるな」という言葉が始めに出てきているが、申命記では「妻をむさぼるな」という言葉になっている。つまりそれぞれ言葉の順序や表現に相違点が見られる。
 最初のころの十戒は断言的かつ無条件的であったが、モーセの死後のパレスチナ定着以後は、条件的・習慣的になり、前者が強い否定的な性格で砂漠の生活を反映している傍ら、後者では肥沃地的な繁栄になっている。十戒は最初は順番が無く、暫く後になってカトリック教において、10の戒めを3と7の二つに区切ってまとめ、最初の二つの戒めを一つにまとめ、さらに対語の10番目の戒めを二つに分けて表現した。一方プロテスタントでは4と6に分け、1~4番目までを神と人との関係(信仰)とし、5~10番目までを隣人との関係(愛)として表現している。なお、十戒は出来た当時は2枚の金の板でできていて、後に木の板に変わった。
 十回には序文があり、これは前文となって、出エジプト記第20章2節にある。この中の「貴方の神」というのは、『アブラハム・イサク・ヤコブの神』の事であると、神はモーセに対して呼びかけている。そしてそれはモーセの神と呼ばれ、さらに後の新約聖書になって、イエス・キリストの父なる神と呼ばれるようになる。この神というのは人格神で、人間の前に現れる神の事をいう。そして人間の歴史を支配する神である。日本では自然を神としており、昔から山や森・海・湖などは神として崇められてきた。ところが人格神は自然の神と違って、言葉を持って意思を伝える神の事で、また選びと契約の神でもある。

2.歴史の神

 出エジプト記は『奴隷の家からの解放』であり、十戒の全文に記されているように、イスラエル人たちの歴史の出発点でもある。イスラエル人達はエジプト脱出後、40年間も荒野で生活していた。その間に彼らはエジプトに戻ろうかと考えたほど生活が苦しかった。出エジプト記はイスラエルの歴史の源泉であり、また「初心忘るるべからず」という言葉が繰り返し語られている。
 
『木はその実によって知られる』という言葉がある。この「木」とは信仰を表し、「実」はそま信仰の実践を表しているもので、これらは互いに切り離す事は出来ない。十戒の第1~第4戒間では水平を表し、第5~第10戒は垂直を表している。これは水平と垂直とが交わる事によって、キリスト教のシンボルである十字架の意味を表現しているのである。



十戒の研究と考察・解説

Ⅰ. 第1戒  
汝、我が顔の前に、我の他何者をも神とすべからず

 これは神の唯一性を表している。一人とか一つという表現は、キリスト教上重要なものである。神というのは多数存在しているが、イスラエルにおいてはその中の一つのヤーヴェ(エホバ)の神を信仰し、それ以外の神は神ではないから信仰してはいけないということであった。
 モーセはカナン定着を前にして死に、その後継者であるヨシュアが、シケムというところで神との契約を結び、そしてカナンへと入っていった。
さて、キリスト教は第1戒にあるように、結いいちの髪を信仰する宗教で、これは「monotheism」という。唯一神ということは、キリスト以外の神は、神であっても神ではないという考え方であり、あるいは神以外のものを神とはしないということであって、神々の追放、世界の非神格化(富・人間・イディオロギー・権力など)を表している。マタイ福音書第6章24節には、「神と富とに兼ね仕える事は出来ない」という言葉がある。この「富」というのは、第二の神を表していて、かつ拝金主義を表している。

 Ⅱ. 第2戒
 汝、己のために何の偶像を彫むべからず。また上は天にあるもの、下は地にあるもの、ならびに地の下の水の中にあるものの、何の形をもつくるべからず。これを拝むべからず。これに従うべからず。我エホバ汝の神は妬む神なれば、我を憎む者に向かいては、父の罪を子に報いて三四代に及ぼし、我を愛し、我が戒めを守る者には恵みを施して千代にいたるなり

 偶像の禁止を戒めているものである。キリスト教は姿・形の表現が無く、心・言葉において人間に表れるという概念がある。言い換えれば「神は霊である」ということであるが、人間は目に見えるものが欲しいという願望を心の中に常に持っており、アロンの造った「金の子牛」がその例であって、この事は出エジプト記第32章に書かれている。これは偶像崇拝というもので、キリスト教ではこれを禁止している。さらに追求すると、これは神の霊性というものを表している。ヨハネ福音書第3章にある「霊は風である」という言葉のように、霊は姿・形のない自由なものであるとされている。さらにヨハネ福音書第4章24節では、「霊と真とをもって礼拝せよ」という言葉もある。

 Ⅲ. 第3戒
 汝の神エホバの名をみだりに口にあぐべからず。エホバは己の名をみだりに口にあぐる者を罰せではおかざるべし

この神の名という『名』が持っている意味には、次のようなものがある。それはこの第3戒が前の二つの戒めと深い関係があり、名が実体を表すものだからである。つまり名前はその人、または物の実体や存在を表すために大切なものなのである。人によって自分の名を変える人もいる。例えば旧約聖書ではアブラムがアブラハムと改名しているし、新約聖書ではイエスの弟子のペテロは、元はシモンという名前であった。そしていずれもその人の新しい道を開くための改名であった。というのは、前者は多くの国民の父となり、後者のペテロは「岩」という意味で、後に教会の基礎となったのである。
ところで、神の名というのは、人が神に対して名付けるのではなく、神自身が示すか、あるいは神が人間に対して示すものなのである。聖書を例にすると、出エジプト記第3章6節には、『アブラハム・イサク・ヤコブの神』と表され、同じく第3章14節には、『有って有る神』と表されている。この表現は「在ろうとして有ろうとするもの」という実にいの表現とも考えられている。
旧約聖書の神は、「God who acts(働きかける神)」とも言われていて、これは神自身で示されたものである。また新約聖書ではイエスはインマヌエル(神我々と共にいますという意味)とも呼ばれている。
神の名をみだりに唱えるということは、神の名を人間の利益のために用いて呪術的なものを通し、人間の意志を実現させようというもので、これは神の名を汚すものである。神の名を唱えるという事は、真実の言葉でなければならない。つまり人間の意思表示のために唱えられてはいけないのである。

Ⅳ. 第4戒
 安息日をおぼえてこれを潔くすべし。六日の間働きて汝の全ての業をなすべし。七日は汝の神エホバの安息なれば、何の業もなすべからず。汝も汝の息子娘も、汝のしもべもしもめも汝の家畜も。汝の門のうちにおる他国の人も然り。そはエホバ六日のうちに天と地と海とそれらの全ての物をつくりて、七日目に休みたればなり。これをもてエホバ安息日を祝いて聖日としたもう
 
安息日というのは「中止する(シャーバス)」という言葉から来たものであって、「聖とせよ」という表現は、その日は仕事を休めて、仕事をする日々と区別せよという表現なのである。「休む」という意味は、神の創造の祝福をおぼえることで、神の救いにあずかることである。
ユダヤ教では元々土曜日が安息日となっていた(現在でも同じ)。キリスト教の場合も、歴史の始め(紀元0年前後)つまりキリスト教の初期の頃は土曜日であった。が、キリストの復活を記念する意味として、パウロの時代から日曜日を「主の日」として礼拝を守るようになり、今日に至っている。また日曜日は週の初めも表している。

Ⅴ. 第5戒
汝の父母を敬え。これは汝の神エホバの汝に賜うところの他に、汝の命の長からんためなり

 ここでは家族の意味を考える必要がある。神と人との関係は契約であり、また人というのは個人ではなくて共同体であり、一つの民族であると考えてみる必要がある。また共同体は個人の集まりではなくて、家族の集まりであるといわれている。これは家族論理といって、特に家族は血縁共同体であるから、家族の中での共同体は結びつきが深い。イスラエルの場合では、それを信仰共同体とも考え、父の責任は重く、その役割も大きかった。家族内での宗教教育や行事、また権威も持っていたのである。
 この戒めは親に対するこの責任であって、成人した子に対する戒めであるとされている。成人するという事は子が独立し、親と対等になる事を意味しているからである。
イエスの言葉の中に、『私より父や母を愛するものは相応しくない(マタイ第10章37節)』というものがあるが、これは父や母を捨てるという事ではなく、父や母以上に神を敬うということを意味している。

Ⅵ. 第6戒
汝、殺すなかれ

『殺す』ということは、ここでは神に対する罪なのである。というのは、聖書では人間は神によって神の形に作られたものとされているからである。また、「目には目」「命には命」「血には血」などという律法は、イエスの山上の説教でも引用されているが、これは加害者への償いを求める精神であって、被害者の感情に於ける復讐ではない。

 Ⅶ. 第7戒
汝、姦淫するなかれ

性関係を含む男女の正しい関係、つまり互いの横の関係というもの(第5戒の親子の縦の関係と比較して)を表現しているのである。そしてこれは神との正しい契約の関係でもある。バルトという神学者は、人間の連帯性という言葉を唱えており、正の人間性や男女の関係をも説明している。姦淫の罪というものは、結婚における神と人との契約の比喩を意味し、神を夫にたとえ、その支配下のイスラエル(聖書におけるもの)が妻にたとえられているおりから、姦淫というものは結婚以外の性的行動であり、それを行うことは夫が妻を、また妻が夫を裏切る事であり、そして神を裏切る事(神への背反)でもある。
また、一夫多妻制という制度は、多神教が背景となっていて、この制度は女というものに対する不利な条件である。一神教においては、一部の例外(回教は一夫多妻制がある)を除いて一夫一婦制である。
現代における結婚や男女関係は、性の自由が肯定されてしまい、離婚率が高い。結婚というものは一対の男女の性関係における、排他的・永続的生活共同体なのである。そして聖書においては、神の許しの下に立つ信頼関係ともいわれている。

Ⅷ. 第8戒
汝、盗むなかれ

第7戒では配偶者を大切にする事を戒めており、ここでは所有物を大切にする戒めが書かれている。所有の権利、また人間関係は、所有関係を伴うものであるとされ、所有は神からの嗣業として人間に与えられたものなのである。出エジプト記第22章1~3節には、盗みに対する償いがどんなに辛いものであるかが書かれている。このようなことがなければ、所有の問題を通じて人間関係に崩れが生じてくるからである。そして盗みが権力や軍事力(ここでの盗みは横領のこと)と結びつくと、重大問題となってくる。聖書では盗みは神への反逆であると書いてある。

Ⅸ. 第9戒
汝、その隣人に対して偽りの証を立てるなかれ

偽証を立てるということは、虚言の証人になるという事である。そして隣人に対する偽りの言葉の否定であり、その具体的場面を前提としている。申命記第19章15節には、「証言の重要性」が書かれている。ここでは証人は二人以上いなければならない事になっている。新約聖書における、イエスに対する裁判が違法であるという事も、この第9戒によるものなのである。裁判における捌きは判定であり、公平と正義を前提とし、もし偽りがあれば裁くものが逆に裁かれる事になる。そのため、裁判における証言は重要であることがわかる(例・出エジプト記第23章1~9節)。そして貧しい人々や他国人のための配慮(どのような条件でも裁判を曲げてはならない)もなされた。旧約聖書の列王記上第21章の『ナボテのブドウ畑』には、その例が書かれている。申命記第19章15節には『真実の証言の命令』があり、これは偏見・自分の利益・自己防衛を取り除く事が勧められている。また偏見は予断と結びつくと大変なことになる。パスカルの著書パンセには、「真実を言う人は嫌われる」と書かれている。というのは、人間は自分に対する不利な条件を恐れるからである。しかし、まともな人間ならば、当たり前の事を出来ないというのはおかしいことであり、自分の過ちは素直に認めることである。

Ⅹ. 第10戒
汝、その隣人の家をむさぼるなかれ。また汝の隣人の妻、及びそのしもべ、しもめ、牛、ろば、ならびに汝の隣人の持ち物をむさぼるなかれ

『むさぼる』ということは、第6~第9戒のような表面的なものに比べ、内面的なものである、「貪欲という精神犯罪」の事を指している。むさぼるという言葉は、「ムザと欲する」ということで、みだりに欲しがるという意味である。ルカ福音書第12章13~21節には、「愚かな金持ち」のたとえが書かれている。この例は自分の所有を過信し、貧しい人々への配慮を忘れた事と、必要以上の物を蓄えた事から起こったものである。必要以上のものを蓄える事は、「むさぼる」ことにつながるのである。
 人間の一生にとって日と様なものは何か?  というと、単純な生活でよいのである。故に、それ以上に必要なものは余分なものであり、あっても無くても同じことなのである。

 十戒の言葉全体を成就したのはイエス・キリストの福音である。そしてイエスの福音は愛の戒めである。




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