鷲尾飛鳥

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イエス・キリストと聖書

2016年 06月28日 18:21 (火)

こういうジャンルで掲載するのは初めてです。自分が信者というわけではないのですが、学生時代(高校と大学)はミッションスクールだったので、キリスト教関係の授業が必ずありました。そこで作成したレポートの中で、比較的出来の良かったものを手直しして掲載することにしました。


イエス・キリストと聖書について

1.イエス・キリストにおける『隣人愛』の研究
良きサマリヤ人のたとえ話(ルカ:第10章・25~38)

 これは隣人愛について語られたものである。しかし、隣人愛についてはイエスが最初に語ったものではなく、それ以前つまり旧約聖書において既に記されていたものである。
 この話に登場する『サマリヤ人』は、ユダヤ人にとっては異邦人であった。異邦人とは、ユダヤ人が自分達以外の民族を蔑視した呼び方である。また、他に登場する祭司やレビ人はユダヤ人である。祭司はエルサレムの神殿に仕える人であり、レビ人の中から選ばれる。つまりレビ人以外から祭司になれる者はいないのである。レビ人とは一部族を指すもので、旧約聖書のレビ記に記されている。レビ人はユダヤ教の正統的な人々の事で、これに対してサマリヤ人のことは世俗人という。
 ところで祭司やレビ人たちは、外的・美徳的行為として、『隣人愛』をいつも会堂で語っている。だから彼らが、強盗に襲われた旅人を助けるのは当然の事なのである。それに対してサマリヤ人は、ユダヤ教の事など殆ど知らない異民族なのである。
 このたとえ話は、イエスが祭司やレビ人たちを間接的に批判しているものだといえる。ユダヤ人がしなかった事を異民族のサマリヤ人が隣人愛を行ったということから、話の中身が見えてくる。いくら律法の知識があっても、それらを実行しなければ、全くの無用の長物なのである。イエスの言う隣人愛とは、親しい人々同士のものではなく、広く遠くへと連なる大きなものなのである。
また、この話はルカによる福音書のみに記されているため、ルカの創作だという説もある。


2. イエス・キリストにおける『試誘(トライアル‐テンプテーション)』の研究
荒野の誘惑(マタイ:第4章・1~11  ルカ:第4章・1~13)

 この話は歴史的事実であるとはいえない。それは福音書がイエスの生涯について、確実な根拠を持たないからである。こういうものを『聖者伝説』といい、他の宗教でも例が多数ある。従ってイエスの弟子達が創作したものであるとも言われているし、弟子達が考えて創り上げた『イエス・キリストの像』であるともされている。またこの話はマルコの福音書には記されていないので、マルコの知らないところで記されたものといわれている。
 試誘(トライアルーテンプテーション)とは、『試練』の試と、『誘惑』の誘とをそれぞれ組み合わせた言葉である。そしてこの話は、神が悪魔をして、イエスに試みを受けさせたものだとされている。これは聖書を元に考えられたものであるが、直接イエスを試みたのが悪魔で、その背後に神がいたものとされている。
 ここで登場する悪魔(サタン)とは、エゴイズムの人格的表現で、悪を誘惑する力の事を意味する。この話は、人が何を求めているのかを鋭く描き出していると思われる。人にとっては悪を求める事は魅力的なことであり、イエスもまた、これによって試されたのであるといわれる。そしてイエスはそれらに打ち勝ったのであった。

 第一の試み: 石をパンに変えよ(物質的なもの)
 この言葉は広い意味で『富』と『金』とをひっくるめて表現しているもので、人の物質的欲望について試みられたものである。これに対するイエスの答えは、「人はパンだけで生きるのではない」である。だがこの言葉はパンを無視しているのではない。もしもパンだけで生きる事を主張すれば、人生の目的が金となり、つまり拝金・物質主義をもった人間となってしまう。その事は現代においても絶えることが無い、贈収賄などの汚職につながっている。人間にとって富の魅力は耐え難い願望だからである。それでイエスは先の言葉に続けて「人は神の言葉によって生きている」と言ったのである。決してパンを否定しているのではなく、パンだけという言葉に、上述したものが意味づけられているのである。

 第二の試み: 神の子なら宮の頂上から下へ飛び降りてみよ(精神的なもの)
 聖書にある『宮の頂上』とは、エルサレム神殿のことである。この試みは、イエスが神の子である事を証明し、その力を誇示して名声を民衆に求めようという誘惑である。この事は、人が名声を高め、それを得るために他人が出来ない事をするという意味につながる。つまり「有名になりたい」という人の心(気持ち)を試したものである。この事もしばしば悪と結びつく。これに対してイエスは「神を試みるな」と言って退けた。

 第三の試み: 悪魔を崇拝するならば世界中の全てを貴方にあげましょう(政治的なもの)
 世界支配の権力を求めるもので、つまり世界を自分の思うがままに動かしたいという感情・欲望への誘いである。これは古今東西の政治家だけが持っているものではなく、人間全体の潜在的な意識でもある。

 これらの3つの誘惑はみなそれぞれが結びついていて、一つの集合体となっている。金・名声・権力の3つがあれば、これらにかなうものは無いのであり、人はこれらを常に求めるのである。しかし、時に欲望(限定されたもの)は貪欲(無限)を呼び、自滅へとつながることもある。


3.イエス・キリストにおける『理想主義』の研究
山上の垂訓(マタイ:第5~7章・ルカ:第6章20~38・第12章21~40)

 聖書にもあるように、イエスの話した場所が山の上であったので、そういわれている。しかしルカの福音書においては平地であったとも記されている。マタイはイエスをよく観察していた人の一人であり、この話の中心は彼が記した福音書の第5章にある。マタイの福音書第5章の21~48節では、律法に対する反対命題(アンチテーゼ)について記されている。命題とは、旧約聖書における律法であり、イエスの教えがその否定にあたるので、反対命題という事になる。
 ロシアの文豪トルストイが、山上の垂訓をそのまま実行しようとして失敗したように、このことは人間には到底不可能な事なのである。また、まじめに考えても不可能であり、理想論でしかないのである。実際イエスは理想主義者であり、その教えが非現実的になってしまったこともしばしばあった。また、ルター派の人々は、人間の心の歪や不可能な事柄は、それは人間の罪であると語っている。
 律法とは、神の意思を伝達する言葉であるといわれていて、ユダヤ人たちにとっては大変重要なことであり、その中でもモーセの十戒は最も重要なものである。イエスが旧約聖書をどのように解釈していたのであろうか、というと、イエスの理想(律法の理解)は立法の否定ではなく、もっと深い意味で律法を捕えていたと考えられる。イエスが反対したのは律法ではなく、その律法の形式主義的理解に反対していたのである。つまり律法の外面だけが人間の行為の形になっており、根源とは全く切り離されてしまっている事で反対したのである。イエスの律法主義批判は、偽善者(ギリシァ語でヒポクラテス、つまり演技者)への批判であり、律法学者やパリサイ人たちへの批判である。この内容はマタイ福音書の第23章に記されている。


4.イエス・キリストにおける『種まき』の研究
神の支配(神の国)

 マタイ福音書では、神の国という表現が無く、神の国を『天国』といっている。マタイ福音書はユダヤ的要素を持っており、そのため神を恐れて天国に置き換えたのだといわれている。神の国は、イエスの言葉による『神の支配』としてもよい。国というものは一つの領域を指すからである。これは王的支配ともいう。神の国は見えるものではなく、つまり形を持たないものであり、神の力があれば何処にでも神の国があるという事をイエスは語っている。これは現実的であり、また将来的でもある。つまり、何時それが来るのかを明確にする事が出来ないからである。そしてそれは発展や拡張ではなく、不連続なものなのである。
 マルコ福音書の第4章26~32節によると、神の国というものは、『種』から始まり、芽を出し、成長して根をはっていくものであると記されている。これは神の国を種にたとえたもので、当時のユダヤ地方では、農民や羊飼いが殆どであったため、このようにたとえられたわけで、イエスは神の国の説明をするための材料として、『種まき』を選択し、神の国の何たるかを語ったのである。
 希望を持って受け止める事は、『信仰』である。つまり信仰は希望である。従って信仰は未来へ向かって開かれている事になる。イエスの語ったことは、神の国の未来についてであり、聖書による『からし種』とは、「ちいさいもの」のたとえである。つまりこの話によって、ちいさいものが大きくなる事をたとえて言い表しているのである。大きくなる事は将来性であり、現代の姿においては見出すことが出来ない。


5.イエス・キリストにおける『帰郷』の研究

(1)野の花・空の鳥(マタイ:第6章25~34 ルカ:第12章21~34)

 何故イエスは、野の花や空の鳥を引用したのか・・・・
 またこれは何を意味しているのか・・・・・
 広い意味でこれは自然を表している。はっきり言うと人間に対し、人間の失っているものを引き出そうというのが目的であったといわれている。「人間は神によって護られている」ということを人間は忘れている、という事でイエスは野の花や空の鳥の生き方をたとえたのである。野の花や空の鳥は、人間みたいに種をまいたり作物を収穫したりしないし、食物を蔵に貯蔵しておくこともしない。それでも神が護っているのだから、人間はそれ以上に護ってもらっているのである。それなのに人間は明日の事を思い煩ったりして、自分たちの心を失ってしまっているのだとイエスは語ったのである。
 また。この話の中から現代人の故郷喪失を表しているところがある。この故郷とは、暖かい安らぎまたは自然を表し、今の人間はそれを失っているということである。今の人間は近代文明の影響に呑み込まれ、故郷に対する理想を失ってしまっているのである。故郷には人間同士の心のふれあいがあり、また故郷にあるもの全てが人間の心のふれあいを表している。ところが、現代の生活では都会ばかりでなく、田舎までも文明の波に侵されてしまっている。道路は車のためのものとなり、人間は無視されるようになった。
何故か??
 それは近代の人間の考え方によるものなのである。利用できるものはいくらでも利用するというだけで、利用できないものは無価値であると考えるのは人間のエゴである。草木は無価値であるというが、それは大間違いである。草木があってこそ人間も生きているのである。
 文学の言葉はイメージ形成の言葉、または自己表現の言葉である。科学の表現では自然の美を表現する事は出来ない。自然を美を表すのなら、文学的表現により、直感的かつ感覚的に組み立てる事によって表すのである。野の花・空の鳥の話は文学的であり、宗教的でもある。これは神と人・人と人・または人と自然との和解なのである。この心のやわらぎを神から受けている事を故郷というのである。

 (2)放蕩息子の話(ルカ:第15章11~32)

 この話は「よきサマリヤ人」のたとえ話同様、有名なものの一つである。ルカは文学的な人物であり、文学者であって歴史家でもあった。ルカはパウロと非常に深い関係があり、新約聖書の使徒行伝も彼の記述である。
さてイエスはどのような意図でこの話をしたのか・・・  また何が話の焦点なのか・・・
 この話はルカの福音書にしかないもので、よきサマリヤ人と同じように、ルカの創作であるといわれている。また、ルカ福音書の第15章には、次の3つの話が共通の内容で書かれている。

 1~7節 99匹の羊・8~10節 無くなった銀貨・11~32節 放蕩息子の話

 これらの話は、失われたものが戻ってくる事によって、ともに喜び合うという共通点がある。最初の二つは、失われたものを見つけるまで捜し続けるという内容であるが、三つ目の話は、失われたものが戻ってくるまで待っているという内容である。またこれらの話には、「悔い改める」という共通の内容がある。そしてこの話の内容は、ルカの主張が強く打ち出されており、またルカの言う「罪人」とは、不道徳な人を意味するのである。マルコ福音書の第2章17節には、「罪人を招くため」と書いてあるが、ルカ福音書第5章32節では、「罪人を招いて悔い改めさせるため」と書いてある。イエスの言う罪人とは、律法に無知な下層民として軽蔑されている人々を指している。
 さて、放蕩息子の話は、父の元を離れた息子が悔い改めて、再び父の元へと帰ってくるという内容が中心で、ここにイエスの考え方の根本がよく表されている。この話は二つに分けられる。前半は11節~24節で、これは弟の話であり、話の中心も前半の話にある。それに対して後半は、話を盛り上げるための付け加えであると考えられている。その後半の話とは、兄のことである。兄は父に対し、不平不満を訴えた。兄の言う事は正しいのか否か・・・  これは兄が父の本当の気持ちを理解していないのである。この話における兄とは、律法学者やパリサイ人たちを指している。律法学者やパリサイ人たちは、外見上では模範生でありながら、内面では偽善者なのである。だから兄もまた、それと同様に考えられるのである。兄も弟と同様、父の本心を理解できず、自分を見失っていた放蕩息子だったのである。つまり兄も自分の故郷を見失っていた事になる。イエスは社会的差別と偏見とに挑戦して、このたとえ話をしたのである。


6.イエス・キリストにおける『招き』の研究
失われた羊の話(マタイ:第18章12~24 ルカ:第15章1~7)

 この話は『迷える子羊の話』ともいい、マタイ福音書とルカ福音書違った表現がなされている。それは何か・・・・ マタイ福音書の場合は、羊のみをたとえた話であるが、ルカ福音書では罪人や取税人たちを通した場面の設定がある。ルカ福音書のほうはルカの捜索であり、ルカ自身の思考によるものとされている。しかし我々はこの状況を手意義付ける事は出来ない。しかしイエスが取税人や罪人たちを通してたとえ話をした事は確かである(歴史的事実)。さらにルカ福音書では、『いなくなった羊』。マタイ福音書では『迷い出た羊』となっており、後者は迷い出たものへの非難が含まれている。マタイの言う「迷い出た羊」とは、マタイ教団の一員(マタイの作った教会の事で、迷える羊とはその脱落者を指す)を意味している。が、いなくなった羊とは、その「いなくなった」という事の良し悪しをいっているのではなく、群れから逸れてしまった事を言っているのであって、脱落者を意味するものではない。これは教会外の異邦人を指しているのであって、それが悔い改め、キリストの教会に加わるという事の喜びが含まれているのである。また結論的にもお互いの相違がある。マタイ福音書では「小さいもの・弱いものへの救い」を強調し、一方ルカ福音書では「悔い改め」を強調している。この表現(強調)の違いは、互いに「マタイ的表現」「ルカ的表現」といわれている。
 しかし共通の焦点もある。それは二つある。一つは「飼い主が失った羊を捜し求める事」で、もう一つは「99匹の羊を野山に残し、いなくなった一匹を捜し求める事」である。飼い主とは言うまでも無く、神またはイエス自身を指しているもので、この話には「神の招き」・「求め」の先行性がある。しかし99匹を残してしまっては、夜盗や猛獣などの危険が多く、また羊が四散してしまうかもしれない。つまりこの飼い主は99匹を無視した無責任な人ともいえるが、それはどうなのか・・・・ イエスがここでは一匹の羊について強調したためのもので、他の事柄については話の外へ出してしまったのである。イエスの話では、このような性質のものが殆どのものに表されている。イエスは話における沢山の要素からの中から最も大事なものを取り上げ、それを強調したために、他の内容の事柄は捨ててしまっているように人々から見られてしまうのである。99匹の羊に関する問題では、飼い主が残った99匹の羊に対して信頼感を持っていたともいえる。
 しかし99匹を残したという事は、『愛の逆説』ともいわれる。言うなれば、ひとつのものに集中し、他のものは構わないという事である。
 ルカ福音書第15章の3つの話のうち、最初の二つは神が人々に求めているもので、最後の話は人から神に求めるものである。つまり人々の悔い改めが、神の赦しよりも先行しているのである。ルカは人々の悔い改めの重要性を語っている。しかし悔い改めは、人が自発的に行うことは出来るが、紙の赦しがそれ以前になされているとも言われている。それが現実化した時、初めて悔い改めが実行されるといわれている。
 マタイ福音書の18章21~35節は、迷える羊の話の展開であるといわれている。赦されることによって、人も同様に赦す事が必要なのである。この事は無限である。


7.本来的自己

『人が全世界を設けても、自分の命を損したら何の得になろうか(マルコ福音書第8章36節)』
 上述の文にある『人』とは、ローマ帝国を指しており、「命」はここではプシュケーという意味をなしている。プシュケーとは古い意味では「魂」と訳され、また自分の一番大切なものという意味がある。命はたとえいくら金を積まれても、絶対に渡せないものなのである。また、もう一つの意味として、「エゴイズム」というものもある。エゴイズムを捨てるという事は、自己をも捨ててしまうという事にもなるが、本来的自己は捨ててはならないのである。
 マルコ福音書12章31節に『自分を愛するように、貴方の隣人を愛せよ』と書いてある。これはイエスの創造ではなく、旧約聖書からの引用である。この事はレビ記19章18節に書かれている。ここでは自分を捨ててまで隣人を愛せよとは書かれていない。つまり自分を愛する事の出来ない人は、隣人を愛する事も出来ないのである。例えば自分のためにやった事でも、それが自分のためにはならず、かえって他人に迷惑が及ぶ事がある。またある事に対し、自分には直接関係が無いと思っても、次第に自分の方へと責任が回ってきたり、自分自身が危険になったりすることもある。従ってどのような事でも自分には関係が無いと軽率に考えてはいけないのである。

○ 本来的自己を愛するという事
 1:富める青年の話 イエスとの問答
 (マルコ福音書第10章17~22節  マタイ福音書第19章16~22節)

 ここでの「富める青年」とは、パリサイ人であるといわれている。聖書に書かれている内容から見ても、それが妥当であろう。この話の中で、イエスは青年に対し、「貴方の資産を全て捨てて皆売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言った。青年はこれを聞いて走り去って行った。このことからイエスは禁欲主義者であるといわれている。しかし、この話の中では、青年は自分の事ばかりを考えていて、他人の事を顧みなかったという事を意味している。当時のユダヤでは貧しい人々が多く、一日の生活も満足に出来ない人たちが大勢いたにもかかわらず、青年が彼らに対して全く無関心であった事をイエスは指摘したのである。つまり青年は自分の富に心を奪われ、本来的自己を忘れていたのである。

 2:マルコ福音書第10章42~44節
 
 ここでは仕える人とか僕(しもべ)という事を表しているが、話に出てくる「異邦人の支配者」とはローマ人を指している。イエスの弟子達は、全ての人々の僕であると、イエス自身が言った。イエスは決して権力を否定していたわけではない。ここではイエスは権力の用い方について説教をしているのである。つまり権力そのものではなく、権力と結びついた人間の欲望を否定しているのである。この欲望は、人々を腐敗させてしまうだけではなく、エゴイズムと結びつき、自分のために他人を支配する事になりやすいのである。権力は用い方を誤ると乱用され、自分自身を腐敗させてしまうので、イエスはそうならないように権力を用いるように言っているのである。

 3:タラントの話(マタイ福音書第25章24~29節)

 タラントとはお金の単位である。1タラントは現代の日本円で大体50~100万円であるといわれている。このタラントからタレントという言葉が生まれた。これは才能とか能力という意味である。この話は、ある主人が自分の三人の僕たちにそれぞれ5タラント・2タラント・1タラントを与えたもので、この結果、最初の二人は働く事によって倍の金額にした。が、1タラントを与えられた僕は、それを地に隠していた。つまり二人は活用し、一人は活用しなかったという内容であって、イエスはここで「活用する」という事について言っているのである。主人は僕たちに対して、それぞれの持っている能力について試してみたのである。能力は持っているだけでは無用の長物であり、また次第に無くなっていくものなのである。三人に与えられた金額はそれぞれ違うが、これは一人一人の能力を試すのが目的であった。ここではそれぞれの比較は問題ではなく、一人一人が自分の能力をいかに活用するかを問題としている。この話では「0」という事は無く、「+」か「-」のいずれかであって、最初の二人は+で、最後の一人は-となったのである。イエスはこれを「弱さのエゴイズム」と言っている。強いエゴイズムは積極的で傲慢なものであるが、弱いエゴイズムは消極的で怠慢なものである。そしてそれはしばしば見逃されてしまう。この事はつまり弱いエゴイズムによる本来的自己の不足なのである。
 ところで、この話は商売が絡んでいるから当然「失敗」も有り得る。もと結果が悪ければ主人はどうしたであろうか・・・・  これは一種の冒険であり、人生の中で一番大切なものである。主人は僕たちが失敗しても、僕たちを責めたりはしなかったであろうが、金の使い方について注意したであろう。それは失敗から何かを学び取るためであり、当然のことなのである。


8.イエス・キリストにおける『愛と自由』の研究

 愛には『アガペー』と『エロス』とがある。この二つのものの比較として、前者は「価値無きものへの愛」であり、無条件かつ他人のための愛である。そして相手に与える愛であり、イエスの言うところの「敵への愛」をも指す。敵への愛はむしろ反価値的なものである。それに対して後者はその逆を意味し、価値への愛・条件的愛・兄弟的愛・奪うための愛・またエゴイズムの愛である。またアガペーに関しては、純粋なものは人間には不可能である。
 アガペーの特徴は、聖書においては「敵を愛せよ(マタイ福音書第5章44節)」と、「家族を憎め(ルカ福音書第14章24節)」という言葉がある。その逆を言えば常識的になるから、イエスはその常識を破ったことになる。これには矛盾があるといわれるが、この話のみならず、イエスの言葉の大部分は内容的に矛盾しているので、これらの言葉を文字通りに取り上げると、かえっておかしくなる。そこでそれらのものの意味をつかむことが大切なのであり、また言葉通りに行うことは不可能である。これらの話の中には常識的な深い意味があるのだが、人はそれを簡単に見出す事は出来ないのである。
 さて、自由にも二つの意味がある。一つは解放的なものを意味し、もう一つはその自由の内容と目的である。前者は「~からの自由」。後者は「~への自由」を意味する。またこの意味を解らずに軽率に自由を唱えると、それは「乱用」ということになる。したがって自由とは、非常に深い内容と意味を持っているのである。
 パウロは「自由は愛の内容である」といっている。また、対人関係の非連続性(主体性)は解放の一面であるとも言っている。本当の愛というのは自他の融合・密着・癒着ではなく、自他の自由・独立・主体性の尊重の上に成り立つ。家族を憎むという事は、放蕩息子のたとえ話にある、「家出の精神」である。しかしそれは親を捨てるのではなく、自他の人格関係へと改めていく事なのである。
 ところで、よく夫婦一体と言われているが、これは他人の始まりであり、また親子や兄弟姉妹の関係も他人の始まりなのである。これが愛の一面なのであり、また、対人関係における連続性(連帯性)がある。敵と味方との関係ではそれが無い。が、無い時は積極的に結びつけるのである。また特にここでのイエスの「敵を愛せよ」という言葉はどんな意味なのか、というと、愛と憎しみは紙一重なのである。愛はエゴイズムと結びつきやすく、それが深ければ深いほど元の他人には戻れないのである。また他人同士の憎しみはともかく、兄弟同士の憎しみほど始末の悪いものは無い。そしてエゴイズムと結びついた場合は自分自身を正当化しようとする傾向がある。愛が憎しみに変われば敵対関係となり、それを乗り越える事がイエスの言う「敵を愛する」事なのである。これは神による可能性なのであり、またアガペーにおいて初めて可能なのである。
 マタイ福音書第5章38節には、無抵抗主義の内容として、イエスの言葉が書かれている。が、これは愛による抵抗なのである。従って無抵抗主義ではない。ローマ人への手紙の第12章21節には、パウロの言葉として「善をもって悪に勝て」と書かれている。


9.実存と社会

 イエスの思想の中心は『神の国』であり、またこれはイエスの視点でもあった。そして神の国は神の支配と結合し、無限である。
 イエスの生きていた当時の政治的状況はどうであったか? というと、当時のユダヤ地方はローマの支配下にあった。そしてローマはユダヤのみならず、地中海沿岸の殆どを支配下に置いていたのであった。ユダヤは紀元前5世紀頃に国家(ユダ王国)が滅亡してから、常に他国の支配下に置かれていた。ユダヤ民族の支配階級はユダヤ教に基づき、宗教的な支配者によって成り立っており、その中には祭司長や律法学者がいた。ユダヤの人々はローマ帝国の支配に対して、反対運動を行っており、また政治的なメシヤ(英:メサイア→救世主という意味)を待望していた。そして反ローマ運動を行っていた人々の事を「熱心党」といい、イエスの弟子達の中にもシモン(ペテロではない)という人物がいた。反ローマ運動は次第に高まり、紀元66年にはユダヤ戦争が起こったが、紀元70年にローマに敗れ、エルサレムが陥落してユダヤ民族は四散した。そして1954年にイスラエル共和国が出来るまで、ユダヤ民族は流浪の民族となっていたのである。
 さて、イエスは十字架刑によって死んだといわれている。聖書では人々の罪を背負って死んだと書かれているが、これは直接の原因ではなく、実際は当時の政治体制が原因していた。十字架刑はローマの刑法であり、この刑は政治犯を処刑するためのものであった。つまりイエスはローマの人々から見ると、政治的に危険思想を持った人物と見られていたのである。そして罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれたように、ユダヤ人の反ローマ運動の指導者として処刑されたのが明白である。またイエスは当時のユダヤ民族の間に広まっていたユダヤ教をも批判しており、ユダヤ教の関係者達からも憎まれていた。イエスが実際に反ローマ運動に加わっていたという見方もある。が、これは聖書に有る文献からすれば、あまり考えられないことである。イエスの死後、イエスの弟子達は、イエスの死を「贖罪死(しょくざいし)」と解釈して人々に広めたので、それ以来十字架はキリスト教のシンボルとなった。またイエスが政治体制に対して反抗したかどうかについては、あまりはっきりした資料が無い。
 マルコ福音書第12章13~17節に、「納税問答」がある。これはローマに税を納めるべきであるかそうでないかを問うたもので、イエスに対する悪質かつ卑劣な罠であった。イエスがどう答えても言いがかりをつけることが出来たからである。つまり肯定すればユダヤ側の敵となり。否定すればローマ側の敵となるからである。それに対するイエスの答えは、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神のものに」というものであった。イエスはこの問いが罠であることを見抜いていたので、曖昧かつ巧みに答えたため、これでは言いがかりのつけようが無かったのである。ここでイエスは何を言おうとしたのか? というと、これは両者の関係を述べたものである。マルコ福音書第6章33節に、『神の国とその義とを求めよ』と書いてある。また、キルケゴールの言葉に、『神の前に単独者として立つ』というものがある。これは「良心」の追求である。イエスが言うのは、神の前における自己のあり方なのであり、つまり我々が神の前に立ち、神の意思に従うということなのである。












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